2013年9月19日木曜日

観音崎海水浴場で水垢離神事



羊水とほぼ同じ主要元素の成分構成である海は人間の根源であるのである。

海に浸かるとDNAの根源が調整されるのである。

海の波は人間の根源の波動であるのである。

つーことで、あたしは今年の夏も海に浸かって、あたしの日頃のでたらめな生活で濁ったどろどろの体内の陰陽を調整しようと思っていたのであるが、忙しさにかまけて9月の半ばになってしまったのである。

しかし、海水浴はあたしの神事であるので、なんとしても海の波動を体内に受けんと欲して、台風一過の9月17日に、「まあ、時期も時期だし、ここはひとつ神事であるから観音様のおわす観音崎で水垢離をいたそうではありませんか」つーよーな、神事と仏事を混同したわけのわからん思いつきで、お車を疾駆してはるばる三浦半島突端の観音崎海水浴場までご来駕遊ばしたのである。

前日は日本中に大雨を降らせた大型台風で、福井や京都やあちこちに被害が出たのであるが、あたしが行くとなったらからりと晴れた大晴天で、象師匠の霊力はいかばかりかつーよーな、ううむ、なんだ、頭が曇天であるのである。

まあ、なんでもいいが、世界広しといえど、海水浴場で霊気神気を体内に取り込もうてなことを大まじめにやるのはあたしだけかもしれないのである。

それで、昨夜は東京周辺はこの夏以来の最低気温で、15度なんて地域もあるぐらいで、昼になっても、海岸は昨日の台風の余波なのか風もぴゅーぴゅーで、とても泳げたもんじゃないし、もちろん、だーれも泳いでいないのである。

まあ、真冬の水垢離と思えばなんてこともない水温であるのであるが、海水浴場の砂浜には台風で打ち上げられた海藻が大量に溜まっていて、さらに、ガラスの破片も大量に散らばっていて、大変危険な状態であるのである。

てなことで、海水浴場水垢離神事修祓はやむなく取りやめとあいなって、半ズボンをたくしあげて足だけ神事を敢行して、神ならびに観音菩薩へのチャネリングとしたのである。

まあ、それでも、体内のDNAはお喜び遊ばして、あたしの波動はいやがうえにも高まり、観音崎一帯を浄化すること夥しく、霊能者としてのお役目を滞り無く務め上げたわけである。

まあ、簡単に言うと放鬆(ほうしょう)であるのである。

放鬆つーのは、つまり、神とつながることであるのである。

自分と宇宙との境目がなくなるつーことであるのである。

脳の機能でいうと、右脳が活性化するつーことでもあるのである。

海に入ると、身体が太古原始生命発祥の昔に戻り、左脳の支配から一瞬ではあるが抜け出せるのである。

なるほどね。

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2013年8月21日水曜日

横浜中華街関帝廟



横浜中華街にある関帝廟(かんていびょう)であるのである。

この関帝廟は横浜中華街の関帝廟通りにあるのである。

そのまんまであるのである。

もちろん関帝廟通りにあるから関帝廟つーことではなく、関帝廟がある通りだから鑑定病通りであるのは想像に難くないのである。

ぷぷぷ、誰だ!笑ってるのは、ああ、あたしだ。

関帝廟は、関帝(関羽・関聖帝君・関帝聖君)を祀る廟(びょう:死者、特に祖先の霊をまつる所・たまや。神の祠)で、孔子を祀る孔子廟(文廟)に対比させて、武廟(ぶびょう)とも呼ぶ場合もあるつーことであるのである。

まあ、日本でいうところの神社であるわけである。

関帝廟の本殿は中央に関羽を祭り、右側に小説「三国志演義」で養子の関平(史実では実子)、左側に同じく「演義」に登場する配下の武将周倉の二神をそれぞれ祭っているつーことであるが、あたしは横山センセーの漫画の三国志で三国志を学んだのでさっぱり内容を覚えてないので、誰が誰だかさっぱりわからんのであるのである。

関羽は、信義や義侠心に厚い武将として名高くまた「演義」での普浄の逸話などから、民衆によって様々な伝承や信仰が産まれ、信仰を高め、また後の王朝によって神格化されて行くこととなり、その関羽を祭った祠(ほこら)が関帝廟の始まりであるつーことであるのであるが、。

また、関羽は、塩湖で知られた解県の出身である為、塩の密売に関わっていたという民間伝承があり、義に厚いとされる事から商売の神として祭られ、この事に起因して、そろばんの発明をしたという俗説まで生まれたつーことであるが、なにしろ俗説であるので、その真偽についてあれこれ論断しても始まらないのでとくに食いつかないのはゆーまでもないことであるのである。

この、商売の神つーよーなバミリ立ち位置から、華僑が世界中に散らばっていったときに、商売が繁盛する様にと、その居住区に関帝廟を立てたため世界中の中華街などで関帝廟を見ることが出来るつーことであるが、あたしはこの横浜中華街の関帝廟以外にはお越しになったことがないので、そのへんについてはむにゃむにゃとあいまいに言葉を濁してスルーするわけである。

いつものことで無意味に言葉を羅列してると思われると、神のお告げ霊界通信チャネリングをナリワイお仕事家業任務お役目とするあたしとしては大変心外であるので、ここでひとつはっきりと神のお告げ啓示神示をお伝えして失地回復の英断に出るのである。

くるまらめらほと、ほれまりくるりれ、にぎみたまあらたまからたまあそこのたまたま、ていてい。

ううむ、さすがに黄泉の国からの元締めの御言葉だけに意味がさっぱりわやくちゃであるのであるていてい。

まあ、象師匠はあたまがおかしいと思われる向きもあるかもしれないのであるが、いずれにしても神のお告げ啓示神示てなものはあたまのおかしい皆さんのたわごとであるので、まじめに読んでる人がいたらごめんねごめんねこれすべて何もかもあたしに憑いてる悪霊のせいなんだからあたしのせいじゃないもんねーていてい。

しまいにはバチ当たるので、一般の霊障タタリノロイ狐憑きカンダーリに弱いしろーとのよゐこの皆さんはまねしちゃいけませんよー。

そんなものはないなんて高をくくってる人は、ためしに神社のお守り売り場の前の巫女さんの前でたちしょんしてごらんなさい。

たちどころにけーさつに通報されて、おまーりさんにものすごく怒られること請け合いで、悪くすると住所氏名年齢付きで新聞ネタになったり、ワイドショーの事件再現ビデオで笑いものになるのである。

これぞ神のたたりと言わずになんとゆーのか、まあ、見方を変えると馬鹿丸出しといってしまえばそれまでであるが、ううう、落とし所が不明になってしまったのでこのへんで閑話休題、中華街大通りから中山路てな路地に入って、関帝廟に向かって象気功神霊心霊動画班ロケ隊はカメラと音声をオンにして撮影を敢行したわけである。

それで、まあ、関帝廟に、無事、ご到着遊ばしてみると、だいぶ前に来た時とはかなり違っていて、綺麗に整備されて、入り口の山門をくぐると供物売り場みたいなもんができていて、拝殿前の階段もきれいに整備されて、入り口出口てなもんもあって、以前は無料で入れた関帝廟の中が拝観料みたいなもんを払わんと入れなくなっていて、拝殿の中は中国の皆さんが真剣にご祈祷なされていて、あたしみたいな神も仏もない一般霊能者の立ち入る場所ではないことがよーくわかって、お外から参拝申し上げたのである。

でも、以前は全体がもっとオープンで気軽に中に入れて、お守り売り場のおばさんに進められて、木製のコマを床に投げて占うなんとか占いをしたのであるが、まあ、これだけ整備されたわけであるから、その費用を工面するためにもいろいろと細かくご商売禿げむのは当然至極であるのは自明の理であるので、あたたかい目で見守っていただきたいとゆーことでひとつお願いしますよ、って、誰にお願いしてるのか定かで無いのも自明の理であるのである。

それで、まあ、定番の霊気神気の波動であるが、これ、やっぱり参拝客が主にちゅーごくの皆さんのせいか、日本の神社仏閣のそれとは一線を画す、なんとも言い表しようのない賑やかな振動であるのである。

もちろん、タイの寺院祠ともぜんぜんちがうのである。

これが実に不思議であるが、国民性なのか、地霊の影響なのか、祀られた神霊の影響なのか、まあ、なんだ、いずれにしても、この世自体が脳の創りだした幻想幻影であるのであるから、そこはそれ、あたしの脳がその波動振動を作り出し、それをあたしが捉えているというアラドクスであるつーことかもしれないのであるてなことを思いながら、とにかくうちの会社もご商売であることにはかわりないので、商売繁盛にご利益があるかもしれないのである。

まあ、その霊気神気の波動振動がなんによるものであれ、あなたにそれを捉える感性感覚がなければ千金もただの錆鉄となるのは必定であるのである。

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2013年7月22日月曜日

川崎大師平間寺



平間寺(へいけんじ)は神奈川県川崎市にある真言宗智山派の大本山で、川崎大師(かわさきだいし)の通称で知られる寺院であるのである。

山号は金剛山で院号は金乗院(きんじょういん)であるのである。

なにしろ川崎大師と言い張るだけに、当山に奉安する御本尊は、弘法大師空海上人の御尊像であるのである。

高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに関東三本山のひとつである。

へー、高尾山薬王院つーのはけっこうなお寺さんであったのね。

まあ、人気の高尾山のお気楽なハイキングコースにあるので、お気楽なお寺かと思うと、そーではなくて、関東三大本山てなごりっぱな寺院であったわけであるが、まあ、だからなんだといわれるとお答えのしようもないので、まあ、なんだ、あのね、そのね、ううう、詰まってしまった。

尊賢(そんけん)を開山とし、平間兼乗(ひらま かねのり)を開基とするのであるのである。

尊賢(1345-1416)は南北朝-室町時代の僧であるが、平間兼乗についてはいろいろ逸話があって、めんどくさいので、各自調査の上「あー、なるほど、こんな人だったのね」とお楽しみいただきたいのである。

1813年(文化10年)に徳川幕府第11代将軍、家斉が厄除に訪れた事から厄除け大師として広まり、毎年の正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなり、2006年の初詣客は272万人となり、全国3位、神奈川県1位を記録したのであるのである。

まあ、あたしも子供の頃に何度か、この川崎大師に初詣に行ったことがあるのであるが、そらもうすんごい人出で、この動画の冒頭の門前町仲見世の参道は押すな押すなの満員電車状態で、本堂にはおまわりさんが何人も張り付いて、遠くからどんどんお賽銭を投げるのでそれが床に落ちて、その床に落ちたお賽銭をパクろうとしたりする不心得なやからを見張ったりしてたのである。

とんとこ飴のとんとことんとこの包丁の音はその頃も快調にとんとことんとこ響いて、実に心もうきうきあそこもむきむきだったのであるが、そのとんとことんとこはこの日も健在で、仲見世参道入口では左右両サイドの店が対抗でとんとことんとこであるのであるが、仲見世の途中のとんとこ飴の飴屋さんはまだ午前中であったせいかやる気がないのか、とん、とこ、ぐらいの低調なとんとこで、手抜き丸出しで川崎大師の仲見世のとんとこ飴の名折れであるのであるとんとことんとこ。

当寺への参詣客を輸送する目的で1899年1月21日(初大師の縁日)に開業した大師電気鉄道は、現在の京浜急行電鉄の基となったつーことであるが、この日もJR川崎駅から京急川崎駅までとんとこ歩いてお電車でお越しなったのである。

この日は全国風鈴市であったので、人出も大変なもので、大門では猿回しのおねーさんがお猿さんをみごとにあやつってご商売にせいを出しておられらて、大人気であったのである。

本堂に参拝すると人出の気の波動も相まって、怒涛の律動振動バイブレーションで、あたしの全身60兆の細胞の振動は素粒子レベルで須弥山の彼方へ飛翔するのであるのである。

何を言ってるのかあたしにだってわからんが、とにかくこのお寺さんに行くと元気になるのである。

しかし、心がけによっては元気にならない場合もあるので、あなたの心を正して正々堂々公明正大に真正面から疾風怒濤の振動波動を丹田に受け止めなければならないのである。

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2013年6月15日土曜日

宝登山神社



宝登山神社(ほどさんじんじゃ)は、埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山山麓にある神社であるのである。

祭神は、神日本磐余彦尊 (かんやまといわれひこのみこと、神武天皇)、大山祗神 (おおやまづみのかみ)、火産霊神 (ほむすびのかみ)の三柱であるのである。

社伝によれば、創建は景行天皇41年(111年)であるのである。

旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社であるのである。

別表神社(べっぴょうじんじゃ)とは、神社本庁が定めた、神社本庁が包括している一部の神社のことである。

昭和21年(1946年)2月2日の神社の国家管理の廃止に伴い、公的な社格の制度(近代社格制度)が廃止されたため、それに代わるものとして昭和23年(1948年)に定められたつーことである。

社格制度廃止後は、伊勢神宮を除き、全ての神社は対等の立場であるとされたのであるが、旧の官国幣社や一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをするとあれこれ不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において、特別な扱いをすることと定めているのである。

その対象となる神社が同規程の別表に記載されていることから、「別表に掲げる神社」(別表神社)と呼ばれるのであるつーことであるのであるが、まあ、そんなことであるのであるつーことでご理解いただければ幸いと存ずるのである。

秩父神社・三峯神社とともに秩父三社のひとつであるのである、

宝登山山頂には奥宮が鎮座するのであるが、時間の都合で奥宮には行かなかったのであるのである。

社伝によれば、景行天皇41年(111年)、天皇の皇子・日本武尊による東征の際、尊が遥拝しようと山頂に向っていると巨犬が出てきて道案内をした。

その途中、東北方より猛火の燃えて来るのに遭い、尊の進むことも退くこともできない状態になってしまった。

すると巨犬が猛然と火中に飛び込み火を消し止め、尊は無事頂上へ登り遥拝することができたのである。

尊は巨犬に大いに感謝したところ、巨犬はなも名乗らずに背を向けて、忽然と姿を消したのである。

このことから「火止山」の名が起き、のちに「宝登山」となったつーことであるのである。

巨犬は大山祇神の神犬であった事を知り、防火守護のため火産霊神を拝し、その後山麓に社殿を建て三神を鎮祭したのであるのである。

これが当社の起源であるとされるつーことであるのである。

2011年5月に発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン(フランス語版第2版)」において、1つ星に選定されたつーことであるが、ううむ、これについてはなんともいえないところであるのであるが、その理由については深く突っ込むと差し障りが多すぎてナニであるのであるので、大人の采配でうやむやにしておくのである。

秩父鉄道秩父本線の長瀞駅から徒歩で約8分つー好立地にあるのであるが、あたしは不動産屋ではないのである。

あたしはお車でご来臨の運びとなったのであるが、大きな駐車場もあるので、送るまでお越しの方も安心であるのである。

駐車場の前にはお土産屋さんもあって、甘酒やおコーヒーなんかもお召し上がりになれるのである。

これが意外や意外の大きな神社で、神社マニアには境内社もいろいろあって、お楽しみ満載であるのである。

本殿の裏には「大和武尊みそぎの泉」てなものもあるのであるが、塀を乗り越えて水浴びしたりしてるのを見つかると、当然、通報されておおもめになるので、水垢離マニアの人は止むに止まれぬ欲求をじっとこらえて我慢しないといけないのである。

つーことで、宝登山山麓周囲の森林樹木の気も相まって、大和武尊の禊水垢離以来の神気の蓄積はさすがに厚みがあり、じっくりと味わえばそこかしこに波動がしみこんで、あなたの気道はいやがうえに開き、人体60兆の細胞の活性化をこよなく賞味できるのである。

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2013年6月7日金曜日

聖神社(銭神様)



金運ご利益の銭神様が鎮座する聖神社であるのである。

聖神社(ひじりじんじゃ)は、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する神社である。

秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える簑山から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座し、簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢(旧称銅洗沢)と称されているのである。

慶雲5年(708年)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされたのである。

社格は旧村社であるのである。

祭神は金山彦命、国常立尊、大日孁貴尊(天照大神)、神日本磐余彦命(神武天皇)の4柱に元明金命(げんめいこがねのみこと。元明天皇)を合祀しているのであるのである。

和同開珎ゆかりの神社てなことから「銭神様」とも呼ばれ、金運隆昌の利益にあやかろーつーよーな参拝者も多いのであるが、もちろんあたしもその一人であるのは当然であるのである。

本堂の横には和同開珎のどでかい作りもんがあって、一見ものすごくインチキ臭い神社であるのであるが、ところがこれが、とんでもなく由緒正しい神社で、創建は社伝によれば和銅元年(708年)つーことであるから、これ、1300年以上になんなんとする歴史を記憶した神気の波動であるのである。

本殿の左には掲示板があり、宝くじに当たった皆さんの感謝のお言葉が何百と数知れず貼ってあるのである。

さすがは銭神様と言い張るだけにその御利益はなみなみならぬ威力があるつーことであるわけである。

あー、ありがたやありがたや、これで、あたしも一攫千金、左うちわの悠々自適大富豪になれること必定であるのである。

つーことは、あたしも宝くじに当たるのは神のお約束つーことで高額当選したらば、感謝のお言葉を貼りに来なければならないわけであるかもしれないのであるが、行かないとバチが当たるてなことはどこにも書いてないので、どーしたもんかとお悩みになるわけである。

しかし、当たるか当たらないかわからないもんを真剣に悩んでも意味がないじゃねーか言われればごもっともであるが、ネタがないのでいろいろこれでも苦労なされているわけである。

まあ、とにもかくにも金運財運に恵まれるご利益満載の神社であるので、あだやおろそかに動画を見てはいけいないのはゆーまでもないことであるので、あなたの身体魂魄の全エネルギーを集中して、この金運は波動を余すところなく受けて、DNAのスイッチをポンと入れて、今後の黄金人生の出発点としていただきたい。

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2013年5月8日水曜日

秩父神社



秩父神社(ちちぶじんじゃ)は、埼玉県秩父市番場町1-1にある神社であるのである。

最寄駅は秩父鉄道秩父本線の秩父駅から徒歩3分で、さらには西武鉄道西武秩父線の西武秩父駅からも徒歩15分とゆー絶好の立地であるが、べつにアパート、マンションを借りるわけではないので、不動産屋さん的にはどーでもいいかもしれないのである。

式内社、武蔵国四宮で、旧社格は国幣小社であり、現在は神社本庁の別表神社であるのであるが、神社マニア以外の読者にはなんのことかさっぱりわからないかもしれないし、なんの興味もないかもしれないのである。

秩父地方の総鎮守であり、三峯神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社であるつーことであるのであるが、これは観光物見遊山の人には必見の情報であるので、秩父観光においでになるご予定のある方はメモして控えていただきたいところであるのであるが、いつもながら大きなお世話であるかもしれないのである。

12月の例祭「秩父夜祭」で知られるのであるが、12月の夜中に秩父で祭りとゆーのは、これ、とんでもなくさぶいのは確実であるので、あたしゃ絶対に行きたくないのであるが、そんなことを言っては仮にも霊能紀行家としての本分にもとるので、なかったことにしていただきたいのである。

祭神は、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと・政治、学問、工業、開運の祖神)、知知夫彦命 (ちちぶひこのみこと・秩父地方開拓の祖神)、天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ・北辰妙見として鎌倉時代に合祀)、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみやすひとしんのう・昭和天皇の弟宮、昭和28年に合祀)であるのである。

てなことで、伊勢神宮大参拝巡礼行脚に続いてはるばる車を飛ばして秩父の地まで、仕事をほっぽり出して、あたしゃいったい何をやってるんだてな反省もそこそこに物見遊山霊場探索神社探訪であるのである。

ううむ、右手の指が上手く動かんが、昨日なんかしたかしらん?

特段、何をした覚えもないのであるが、日頃の神仏に対する不敬不遜のタタリかもしれないとは思うが、まあ、あまりにもあちこちで涜神の限りであるので、もう、なんのタタリなのか判別もつかないありさまであるのである。

涜神はとくしんと読むのであるが、まあ、意味は各自で辞書を紐解いて、少しでも日本語に親しんでいただきたいと思う今日このごろであるのであるが、また、尺稼ぎのネタを拾ってると思われても癪なので釈に笏するのである。

それで、この日は4月であったのであるが、時期はずれに真冬並みの寒波襲来で、寒風吹きすさんで、観光客参拝客はほとんどいなくて、実に神気の厳しさを味わえる厳かなロケとなったのである。

どんな寒さ冷たさも、これ霊能修行修祓の一環であるので、神使としての本分を忘れず薄着で肌身に寒風を受けて、ああ、これで、明日もあたしゃ、うううう、指が動かん、さらには痙攣してる、いかん、これは艮の金神様がお怒りであるのであるなあ、ていてい。

つーことで、神罰もタタリもなんのその、秩父大神の神気を受けて、あたしの波動はさらに高みへ飛翔せんとその翼をばーたばたと羽撃くのであるてなことで締めといしたいのである、いててて、今度はいてーぞ、ああ、神さま許して。

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2013年5月3日金曜日

神明神社(鳥羽市)石神さん



三重県鳥羽市相差(おおさつ)に鎮座する神明神社であるのである。

そうね、伊勢市の伊勢神宮からは車で山道をぐるぐる回って、1時間ちょっとかかるのである。

神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社であるのである。

つまりこの鳥羽市の神明神社も伊勢神宮内宮のご祭神を分祀したものであるわけであるのである。

神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として伊勢神宮と同様に「お伊勢さん」と呼ばれることもあるのであるつーことであるのである。

神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているのであるが、どなたかの飯田放題の一説では約1万8,000社てなことであるので、いわゆる言ったもんがちであるのである。

一方、岡田荘司つー誰だかさっぱり知らない人によれば、祭神で全国の神社を分類すれば、伊勢信仰に分類される神社は、全国2位(4425社)であるということであるのであるが、まあ、マニア以外にはどーでもいいことかもしれないのであるが例によって一応言っとくのである。

祭神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき神明神社は広く信仰を集めたわけであるのである。

古代においては王家の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止されたが、中世に入り朝廷が衰微するに伴い、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、王家にとってのみの氏神から日本全体の鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わったつーことであるのである。

また、布教とともに各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われ、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され、神明神社が広範囲に分布することとなったのであるが、1,800もあったのではありがたみにかけるつーご意見もあるかもしれないのであるなんてことは間違っても言ってはいけないのは言うまでもないことであるのであるていてい。

特に神仏習合の教説において神道側の最高神とされたことなどにより近世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになったつーことであるのである。

その祭事はほぼ伊勢神宮と同じであり、神使も鶏であるのである。

まあ、余談であるが、鳥居の起源説のひとつとして、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとすることから、鶏が神使つまり神の使い眷属であるわけであるから、その眷属神としての鶏さんがうろうろなさってるところを意味するものであるということが言えるわけであるがあたしが天照大御神ねーさんに直接聞いたわけではないのであくまでも霊界通信御筆先の神のお告げの口から出まかせであるのは無論のことであるのである。

神明神社の鳥居の形は主にいわゆる「神明鳥居」であり、素朴な形式で全体的に直線的であり、その建築様式は神明造であることが多いのであるは当たり前といえばあたりまえであるというご意見は当然多々あると思うのを考察に入れても一応言っとくのであるなんだこれ困った。

なお、「神明」という言葉は天照大神のことを指すほか、単に「神」という意味でも用いられるのであるが、例えば「天地神明に誓う」の「神明」は後者の意味であるのであるが、ううう、これ、蛇足だろうねえあなた。

明治時代に全国の神社の調査が行われたが、その神社の氏子に神社の祭神について質問した所、氏子も何の神が祭られているかを知らず、「神」というつもりで「神明」と答えたら、天照大神を祀る神明神社ということにされたという例も少なくないつー話もあるぐらいあのねのねであるのである。

さて、この鳥羽市相差(おおさつ)の神明神社には25柱の神が祀られているのであるが、その中の一つに参道にある小さな社石神さんと親しまれている女神があるのであるがへー女神だったのかとあたしはここに来ていまさらながらわかったのでこんな神域探訪はどーなんでしょーかとみずからのいいかげんさにうううだめだ。

ご祭神は、神武天皇の母 玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、海女たちが古くから「女性の願いならひとつは必ず叶えてくれる」と密かにお参りを続けていたのであるが、いつの間にやら全国から参拝客の絶えることがない社になって、25柱の神が祀られてしまうほどに押しも押されもしないが境内でおしくら饅頭だってできるごりっぱな神社と相成ったのである。

まあ、この神明神社までの門前町参道は住宅街であるのであるが、車一台がやっと通れる程度の道幅で、そこをバスを降りた団体の観光客の皆さんがぞろぞろ歩いてご参拝なさるので、その細い道には付近の皆さんが農産品や海産物を並べて売ってたり、おばさんがサザエの壺焼を焼いて売ってたりするので、まあ、なんつーのか、なかなかよろしい雰囲気であるのであるが、あたしはサザエのつぼ焼きを食いたかったのであるが、焼いてるのを待ってるのがめんどくさいので食わなかったので実に残念といえば残念で、ああ、少し我慢して食えばよかったとくいしんぼーを人生の課題することに多少の悔いがのこる参拝となったのであるがおいおいあんたは神さまよりサザエのつぼ焼きかいとツッコミをいれられるのを覚悟でボケをかましてみるわけであるってううむいかんなこれでは読者がますます呆れて読まなくなるのが必定であるのであらいやんあなたってアレなのねであるのであるあああ神さまだずげで。

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2013年5月2日木曜日

伊勢神宮(内宮)大山祇神社と子安神社



三重県伊勢市に鎮b座する伊勢神社(内宮)境内に鎮座する大山祇神社と子安神社であるのである。

伊勢神宮(内宮)の宇治橋を渡ってすぐ左の道を行くとあるのである。

まあ、大方の観光客である物見遊山の参拝客の皆さんは正宮への参道を中心に、各別宮や御手洗場、御守売り場てなところを目指してお歩きになるせいか、正宮への参道から外れているこの両社へ訪れる人は疎らであるのである。

しかし、そこはそれ、八百万の神を自信の霊脳に網羅してその御利益を我が物とせんつー神ごとには浅ましいばかりの意欲をみせる象師匠の本領発揮で、鎮座する神という神を目ざとく見つけてこれでもかときめ細かく参拝なさるわけである。

なにしろ霊脳であるので、霊の脳であるのである。

脳が霊になってるわけであるのである。

なんのことかわからんとゆー人もおられるとは思うが、あたしだっててきとーにきーぼーどを打ってるだけなのでなんのことかは意味不明であるのである。

とにかく尺を埋めることが重要であるので、打ってればそのうちどーにか埋まるわけである。

そんなものを読まされる方は閉口するのはわかっていても、そこがね、霊脳力抜群のあたしには快感でもあるわけである。

ううむ、これ、どこが笑えるのかといわれるとあたしもさすがにどこかに奔逸退散したくなるわけであるが、気を取り直して、さてさて、 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社で式内社(名神大社)、伊予国一宮で、旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社で、祭神は大山積神 (おおやまづみのかみ)であるのである。

山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。

全国にある山祇神社や、多くの三島神社の総本社である。

この伊勢神社の大山祇神社もその分社であるのである。

子安神社は安産・子育ての神が祀られている神社であるのである。

山の神海の神と子育ての神の霊気神気がいっしょくたになった波動であるわけであるが、まあ、山に行っても海に行っても子育てをしてもだいじょーぶとゆーことであると思えば、実にこの世は極楽であるのである。

人生においては、この極楽気分がなにより重要であるのは、推定全国3千万の象気功信者には周知のであるとは思うが、おつむのちょーしが今一つであんまりご理解されていない向きもあろうかと思うので、蛇足とは存じながら一応言っとくわけである。

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2013年5月1日水曜日

伊勢神宮(内宮)月讀宮



月讀宮(つきよみのみや)は伊勢神宮内宮(皇大神宮)別宮で、三重県伊勢市中村町にある神社であるのである。

「月読宮」は略字表記であるのである。

月讀宮(つきよみのみや)は伊勢神宮外宮(豊受大神宮)から約3.8km、内宮から約1.8kmの五十鈴川中流域の中村町にある内宮別宮であるのである。

祭神は月讀尊(つきよみのみこと)で、「つきよみさん」とも呼ばれるが、同じく「つきよみさん」と呼ばれる外宮別宮の月夜見宮の祭神「月夜見尊」は本別宮と同じ神とされているのであるが、ややこしいのでここんところ間違いないようにしないと伊勢神宮マニアとしてはその評価に傷が付く由々しき事態に陥るのである。

月讀宮の宮域には同じく内宮別宮の、月讀尊の魂を祭神とする月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祭神とする伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祭神とする伊佐奈弥宮(いざなみのみや)の盛りだくさんの3社があるので、参拝の皆さんは次から次へと2礼2拍1礼を繰り返さなくてはならないので大忙しであるんのであるって誰か読んでますかー?おーい返事してくれーううむだめか全員遭難かな。

複数の社殿が並ぶ別宮は月讀宮以外では瀧原宮の2社のみで、社殿は荒祭宮以外の内宮の他の別宮と同等で、正宮に比べれば小規模であるものの、神明造の社殿がこれでもかと4社も並ぶ様は実に壮観の一言に尽きるのであるのであるとしかいいようもないのであるが、このぐらいよいしょしとけば神さまもご満足であらせられるかもしれないのであるがバチ当たるかもしれないという薄氷を踏むが如きお笑いのサガであるということもできようあたしはどこかへんなんでしょうかたはははもうやめろ?はいはい。

無駄口はともかく、向かって右(東)から月讀荒御魂宮、月讀宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮と並んでおり、参拝順序は月讀宮-月讀荒御魂宮-伊佐奈岐宮-伊佐奈弥宮の順が正しいとされるのであるが、無駄口とはさすがに仮にも神さまに対し奉り言いすぎようふん。

最高神天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神の月讀尊が祭神であることから、内宮別宮としては天照大神の魂を祭神とする荒祭宮(あらまつりのみや)に次ぐ順位で、内宮宮域外の別宮としては最高位の別宮であるが、おそらくお参りしてる物見遊山の皆さんはそんなこたあ知ってるわけでもないのは言うまでもないことであると思うのはあたしだけかねくそーだめだ珈琲をもう一杯飲もう。

宮域には上記別宮4社のほかに、動画の後半にご参拝申し上げる内宮末社の葭原神社(あしはらじんじゃ)があるのである。

ほかの境外別宮と同様に、神職が参拝時間内に常駐する宿衛屋(しゅくえいや)があり、お札・お守りの授与や、神楽や御饌の取次ぎを行なっているのであるのであるが、とくに必要でもないので授与の栄を受けることはなさらなかったのであるって日本語が変であるのである。

別宮各社殿のご祭神は、月讀宮:月讀尊(つきよみのみこと)、月讀荒御魂宮:月讀尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)、伊佐奈岐宮:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊佐奈弥宮:伊弉冉尊(いざなみのみこと)、葭原神社:(祭神はいずれも田畑を守護する五穀の神とされる)佐佐津比古命(ささつひこのみこと)宇加乃御玉御祖命(うかのみたまのみおやのみこと)伊加利比売命(いかりひめのみこと)であるのであるがこんなに神さまがいても覚えられるわけもないのでめんどくさい人があっさりとスルーしてしまうのはいたしかたないのであるってううむおつむが限界かな、

例によって由緒は定かではないが、第50代桓武天皇の804年(延暦23年)の大神宮儀式帳に「月讀宮一院、正殿四区」で、一囲の瑞垣内に祀られていたと記されており、別宮4社あわせて「月讀宮」と呼ばれていたのであるのである。

第56代清和天皇の867年(貞観9年)に伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮の宮号が与えられたのであるのである。

第60代醍醐天皇の927年(延長5年)の延喜式によれば、この時代には伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮に瑞垣をめぐらし一院とし、月讀宮と月讀荒御魂宮が同様に一院となっていたとされ、1873年(明治6年)より、4社とも個別の瑞垣を持つ現在の形になったつーことであるのであるがもうやめていい?だめ?。

皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、祈年、月次、神嘗、新嘗の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があるのであるのであるのであるのであるのであるあるのであるのであるのであるのであるのであるってやけくそかよ。

さてさて、今日も明日も明後日も神社本庁本宗のほまれ高い伊勢神宮に訪れる人は引きも切らず、さすがは神社の中の神社と言わざる見ざる聞かざるの伊勢神宮の別宮月讀宮であるのである。

別宮といえども敷地は広大で、樹木生い茂る境内参道をてくてく歩けば、森林浴いい空気満喫酸素供給はもとより体力増強も含めて神社参拝のご利益の第一である健康成就大達成の香りも馥郁とあたしの鼻腔をくすぐって、波動はいやがうえにも転句の高みに限りなく膨張するのが実感できるのである。

その膨張の実感の一端木綿でもこの動画から感じ取ることができた人にはもちろん神のご利益思し召しがあらんことを天を仰いでただひたすら祈念するのみであると言っておくのである。

てなことで、本日も人生は絶好調であるのであるが、まあ、前触れもなくいつお亡くなりになるかわかったもんじゃないのも人生であるのである。

そのスリリングな道程がまた人生の醍醐味であるので、お楽しみはつきないわけであるが、ちょうどお時間となりましたので、このへんでさようなら。

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2013年4月30日火曜日

伊勢神宮(内宮)風日祈宮



風日祈宮(かざひのみのみや)は三重県伊勢市宇治館町にある伊勢神宮内宮(皇大神宮)の境内別宮であるのである。

祭神は外宮(豊受大神宮)別宮の風宮と同じ級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しなとべのみこと)で、内宮神楽殿前から南方へ向かう参道にある風日祈宮橋(かざひのみのみやばし)で五十鈴川支流の島路川を渡った先に風日祈宮があるのである。

風の神であることから、航海安全の神ともされ、また、「風」と同音・同根であることから神さま関係お得意のこじつけご利益で「風邪」を治す神ともされるのであるが、そんなことをいうと神罰が当たるので、神使をもってなりわいとするあたしのようなりっぱなぱー以外は言ったりしてはいけませんつーことをご忠告申し上げておくのである。

風日祈宮御橋は長さ45.6m、幅4.6mで、内宮前の宇治橋を小さくしたような橋であるのであるが、そーいえばそーかねとゆーことであるのである。

橋が最初にかけられたのは室町時代の1498年(明応7年)で、南端の擬宝珠(ぎぼし)に「太神宮風宮 五十鈴川御橋明応七年戌午本願観阿弥 敬白」と刻まれているわけであるが、古くはこの橋がかかる川が五十鈴川本流とされており、この橋を五十鈴川橋と呼んだのであるつーことであるのであるが、マニア以外にはどーでもいいとこかもしれないのである。

もっとも長い川が河川の本流と定義され、島路川と呼ばれてからは風日祈宮橋と呼ぶのが一般的となったのであるつーことであるのであるうううめんどさくなってきたのであるつーあたしの神のご意見であるつーことであるのであるがだいたいがあたしの神はものごとにすぐあきるのできっとあきる野市の出身かもしれないのであるってだじゃれかよといつもノリツッコミをかましておくのであるが見捨てないでほしいのである。

別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされると定番のの解説もかろやかに、内宮の別宮は風日祈宮のほか境内に荒祭宮(あらまつりのみや)1宮、境外に月讀宮(つきよみのみや)、瀧原宮(たきはらのみや)、伊雑宮(いざわのみや)、倭姫宮(やまとひめのみや)ほか4宮があるが、風宮が別宮となったのは1293年(正応6年)で、1923年(大正12年)創建の倭姫宮の次に新しく、順位は内宮別宮10社中9位とされるのであるがやる気がぜんぜんないのでそのまんまのベタであるのである。。

古くは現在の末社格の風神社であったが、1281年(弘安4年)の元寇の時に神風を起こし日本を守ったとして別宮に昇格したのであるつーことであるもうやめたいお願いだれか。

祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命と級長戸辺命(しなつひこのみこと、しなとべのみこと)であるつーことでまだ続くのかよおいおい。

本来は農耕に適した風雨をもたらす神であったが、元寇以降は日本の国難に際して日本を救う祈願の対象となったのであるが、さらにやる気もなんにもないのでベタベタであるのである。

あまりにも古すぎるので、風日祈宮の由緒は定かではないのであるが、804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』の「風神社」(ふうじんのやしろ)が初見であるのであるが初出と言ってもいいし初登場と言ってもいいのであるが、風神社は現在の末社に相当し、現在の摂社以下の扱いであったのであるのである。

かの吾妻鏡に1187年(文治3年)に源頼朝が神宮に8頭の神馬を奉納したと記されているのであるのであるが、あたしがもちろんあたしが見たわけではないので確約はできないのである。

その時の宮社の風が風神社とされるが、外宮権禰宜の度会光生が取り次いでいるので外宮の風社(現在の風宮)の可能性があるのであるつーことであるが、なにしろ可能性であるのでこれも確約はできないわけであるが、これ根気よくここまで読んた人はえらいっとお褒めのお言葉を奏上しておくのであるっておおきなお世話かもしれないのであるあるあるあるあるあああ壊れた壊れた。

風神社は末社相当であったが、祭神が農耕に都合のよい風雨をもたらす神であることから風日祈祭が行なわれ、神嘗祭では懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視されたのであるのであるが責任者を呼べ責任者をいったいいつ終わるんだよ忍耐にも限度があるぞなんていい大人が駄々をこねちゃいけませんやね。

1281年(弘安4年)の元寇では朝廷より二条為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、風神社と風社で祈祷を行なったつーことであるのであるが、もうやめるいいや止めるなだれがなんといってももうやめるぞあたしゃ。

といーながらさらにつづくのかよしかし、日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利として1293年(正応6年)に風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮と風宮となったのであるってこったいどうだいこれで。

江戸時代末期に欧米諸国が日本を訪れるようになり、1863年(文久3年)5月に朝廷は風日祈宮と風宮で攘夷の祈願を15日間行なったのであるがだからなんなのそれでなんかおもろいのかね笑いがとれるのかねええ?まだ続くの?。

毎年5月14日と8月4日に風雨の順調と五穀の豊穣を祈る風日祈祭が行なわれるのであるがもうこーなるとさすがにいったいどこで撤収すればいいのかわからんがね。

1975年に風日祈宮ほーか事件があったのであるつーことであるが、あれこれを守護する神のくせに本人がほーかなんかされてどーすんだなんて言われるともともこもないので、食いつかないでスルーするのであるつーことで終了である。

疲労困憊で霊気もへったくれもないのである。

ああ、疲れた。

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2013年4月29日月曜日

伊勢神宮(内宮)荒祭宮



荒祭宮(あらまつりのみや)は三重県伊勢市宇治館町にある伊勢神宮内宮(皇大神宮)の境内別宮であるのである。

祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)であるのである。

祭神の天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)はその名の通り天照大神の荒魂で、804年(延暦23年)の「皇太神宮儀式帳」において、「荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 神宮の荒御魂宮と称う」とあり、また、927年(延長5年)成立の「延喜式」において、「荒祭宮一座 大神の荒魂」と記載されているつーことであるが、マニアック過ぎていったいなんのことなのか意味がさっぱりわからんのであるが、もしかしたら神社神道マニアの皆さんには興味津々のことであるかもしれないのであるので、さらに荒御魂について解説してしまうのである。

神道における神の霊魂の概念には、荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま・にぎたま、にきみたま・にぎみたま)という二つの側面のがあるのである。

荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きであるのである。

つまり神の祟りは荒魂の表れである。

それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面であるのである。

つまり神の加護は和魂の表れであるのである。

荒祭宮は内宮正宮北方にあるのであるが、別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされるのである。

荒祭宮は「荒魂を祭る宮」の意味とするのが定説であるのである。

天照大御神の荒御魂である天照大神荒魂を祀る内宮の別宮は境外に瀧原竝宮(たきはらならびのみや)があるが、荒祭宮は内宮に月讀宮、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮、瀧原宮、瀧原竝宮、伊雑宮、風日祈宮、倭姫宮と、あわせて10ある別宮の中で第1位とされるのである。

そんなこんなで、荒祭宮は他の別宮よりも社殿が大きく、神御衣祭(かんみそさい)は外宮(豊受大神宮)では行なわないが、内宮正宮と荒祭宮では毎年5月と10月に行なわれるつーことあるのであるが、あたしゃ神御衣祭に参加する予定もないのでどーでのいいのであるがこれも一応言っとくのである。

参拝順序としては内宮正宮参拝後に参拝するのが正しいとされ、正宮石垣の角の籾種石(もみだねいし)を右手に見ながら右へ進み、稲を納める御稲御倉(みしねのみくら)、古い神宝を納める下幣殿(げへいでん)を左手に見ながら進んだ先の石段を一度降り、次の石段を上った先に荒祭宮があるのであるが、そんなこたあわざわざ説明しなくても動画を見れば一目瞭然であるつーことも一応言っとくのである。

この時に降りる石段には四つに割れ「天」の字のように見える石があるのであるが、この石は「踏まぬ石」と呼ばれ、避けて通らなければならないとされるのであるが、あたしゃそんこたあぜんぜん知らなかったのでおもいっきり踏んづけたかもしれないのである。

言い伝えでは、踏まぬ石は天から降って来てなホラを吹いてるのであるが、どーだかこーだか定かではないと当たり前のこともおっしゃてるのである。

荒祭宮に参拝できない場合のため、籾種石の近くに石畳の荒祭宮遥拝所てな親切な場所が設けられているのであるが、もちろんそんなこたあ知らなかったのでどこだかわからんかたのである。

あたしは物見遊山の観光では下調べはいっさいせずに行き当たりばったりの出たとこ勝負であるので、なにがなんがかわからんうちに粛々として日程が終了するのが常であるのである。

人生も観光も行き当たりばったりであるのが、象源流であるのである。

下調べをしたら面白いものも面白くなくなるのである。

ハプニングの連続を楽しむのが人生つーもんであるのである。

言いたい放題であるのである。

籾種石は、天明年間の第51回内宮式年遷宮(1781年-1789年)に、楠部郷(現在の伊勢市楠部町)の住民が五十鈴川上流から苦労して運び奉納した石と伝えられているのである。

この時、農作業よりも石の運搬を優先したため食料不足に陥り、籾を食べるしかなくなったことから籾種石と名の由来となったつーことであるが、ここでの五十鈴川は、現在の五十鈴川本流ではなく現在の島路川であろうてなことであるのであるがあろうであるので定かではないのかも知れないつーこともひとこと付け加えておくのであるのであるがどーでもいいからやめろといわれても指が止まらないのであるが神のお告げの御筆先であるのであたしの責任ではないのであるし文責も神にあるのであたしはいっさい責任をとらないのであしからずご了承いただきたいのであるうううびょーきかなこれは絶対にどこかおかしいのである。

御稲御倉は御稲御倉神を祀る内宮所管社で、神宮神田で収穫された稲を納める倉でもあり、社殿は高床式倉庫に近い神明造で、社殿に垣がないため神明造の特徴を観察することができるのであるが、あたしは神の波動には興味があっても建築法にはたいして興味がないので観察はしなかったのであーだこーだ言えた義理ではないのである。

皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である。祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行するつーことあるのであるが、いくらなんでも興味もなんにもないことをこれ以上解説するのはご勘弁いただきたいのであるてなことで本日のご挨拶に代えさせていただきたいのである。

さて、本日のご挨拶も滞りなくすませたところで、荒祭宮の剛気な波動をいいかげんな心がけのままうっかり受けるとうっかりなことにもなりかねないので、祟り神であるという側面をご了解の上、動画参拝の際は鎮魂魂振に勤めていただきたいのは無論のことであるのである、

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2013年4月27日土曜日

伊勢神宮(内宮)五十鈴川御手洗場



五十鈴川(いすずがわ)は、三重県伊勢市を流れる宮川水系の一級河川で神路山(かみじやま)を源流とし、支流島路川と合流し、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の西端を流れており、古くから清流とされ、和歌にも多く歌われた川であるのである。

倭姫命(やまとひめのみこと)が五十鈴川で御裳のすその汚れを濯いだという伝説があるのである。

倭姫命(やまとひめのみこと。生薨年不明)は、記紀に伝える古墳時代以前の皇族で、第11代垂仁天皇の第4皇女であるのである。

ちなみに薨(こう)とは、貴人の死、特に律令制では、親王および三位以上の人の死をいうのである。

さらにちなみに薨去(こうきょ)は崩御(ほうぎょ)とざっくりと同意であるのである。

倭姫命の母は皇后日葉酢媛命で、倭姫命は伊勢の地に天照大神を祀った皇女とされ、これが現在の伊勢神宮斎宮の直接の起源であるとも伝えられているのである。

その五十鈴川にかかる伊勢神宮(内宮)宇治橋から正宮までの参道の途中に五十鈴川御手洗場(いすずがわみたらし)が作られているのである。

御手洗場と書いて「みたらし」と読まないと伊勢神宮の通とはいえないのであるとゆーことをひとこと付け加えておくのであるが、そーでないのとおっちょこちょいは脱字と勘違いするのである。

この御手洗場では、かつては手洗いだけではなく、口濯ぎまで行われたのである。

現在でも伊勢神宮の公式ウェブサイトで「神聖な川、清浄な川として知られる五十鈴川の水で心身ともに清めてから参宮しましょう」「天気のいい日は五十鈴川「御手洗場」で、口と手を清めることをお勧めしますと記載され、推奨されているのであるのであるが、衛生上の問題もあるので、某保健所公認の食品衛生責任者としてのあたしからご推奨もうしあげられないのである。

食品衛生責任者(しょくひんえいせいせきにんしゃ)とは、食品衛生責任者養成講習を受講した者などで、食品衛生責任者として選任されている者であるのである。

あたしは元珈琲専門店マスターとしてのお立場上、某保健所に出向き、あくびをしながらも講習を貫徹して、衛生については象師匠に聞けとゆーぐらいの、押しも押されもしない盤石の食品衛生責任者であるのである。

この御手洗場の前に手水舎があるので、口はそこで濯ぐことをご推奨もうしあげて一服の清涼剤としてのご意見といたしたいのである。

まあ、そんなこんなで、五十鈴川御手洗場でお手々を洗って、神さまに失礼のないように身も心も整えてから謁見するのが伊勢神宮マニアの本分であるが、まあ、参拝客観光客の皆さんはどなたもこの御手洗場の前にある手水舎で手を洗って口を漱いでおられるので、さらにこの御手洗場で手を洗って口を濯ぐかとゆーと、そーでもないので、まあ、あたしはこの御手洗場に折目高に礼をつくして正宮に向かって一目散に歩を進めたのは多言を要しないことであるのである。

霊力星3つであるのである。

何いってんでしょうか。

どんどんなんだかわからなくなるのである。

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2013年4月25日木曜日

伊勢神宮(内宮)宇治橋



宇治橋(うじばし)は、三重県伊勢市にある伊勢神宮(内宮・皇大神宮)の参道口にある高欄付き木造の和橋(わきょう)で、別名を御裳濯橋(みもすそばし)つーのであるのである。

橋梁工学の専門家である大阪市都市工学情報センター理事長の松村博さんがそのご著書で言い張る日本百名橋(にほんひゃくめいきょう)のひとつであるつーことである。

まあ、日本三大橋とかなら把握できるのであるが、百って、しかし、多すぎるだろなんてツッコミをいれてはいけませんのである。

日本百名山だの日本百名城だの日本百名道だの、はては日本百名居酒屋てなものまであって、日本人はとにかく百なんとかが好きであるのである。

その百なんとかをぐるぐる回ってお楽しみなにる暇人いや失礼、ご酔狂なご趣味の皆さんもたーくさんおられるので、それをあーだのこーだのと言うのは的外れであるのであるが、どんどん着地点も帰り道も見えなくなって行くので、どーすんだよこれは。

宇治橋は長さ101.8m、幅8.42mで、橋の両側に神明鳥居があるのである。

神明鳥居とは鳥居の形式のひとつで、2本の円柱の上に円柱状の笠木(かさぎ)をのせ、下に貫(ぬき)を入れた直線的な鳥居のことで、神明造りの神社に多く用いられるのである。

神明神社(しんめいじんじゃ)とは、天照大神を主祭神とし、この伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社であるのである。

つまり、神明神社の元締めである伊勢神宮の神域をわける川である五十鈴川にかかっているのが宇治橋で、その両側に神明鳥居があるわけである。

五十鈴川に架けられたこの橋は、だいたい100メートルであるので100メートル競争をするには最適であるのであるが、まあ、たいしてネタが広がりそうもないのでやめるのである。

神宮の定義では宇治橋を渡った先は神域(神が宿るとされる聖域)ではなく神苑(直接神社の宗教的関係ある本殿や摂末社、社務所あるいはお旅所等がある地域と、これに接続する苑地や林地の一帯)であるが、崇敬者・参拝者・伊勢神宮マニアの間では、通常、神域として扱うことから、一般に「俗界と聖界の境にある聖俗を分ける橋」とされるのである。

明治以降は神宮式年遷宮にあわせて架け替えられていたのであるが、いろいろな経緯を経て現在は20年ごとの神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになったのあるのである。

橋の両側の神明鳥居の高さは7.44mで、外側(外)の鳥居は、外宮古殿の棟持柱(むなもちばしら)の古材から、内側(内)は内宮古殿の棟持柱の古材から作られる昨今のエコの時代にも適応したリサイクル鳥居でもあるのである。

明治以降、これらの鳥居が建て替えられると外の鳥居は三重県桑名市桑名宿の七里の渡しで、内の鳥居は鈴鹿峠の麓にある三重県亀山市関町関宿の関の東の追分で、それぞれ神宮遙拝用の鳥居に20年間使用されているという地球資源を限りなく無駄にしない再リサイクル鳥居でもあるつーことであるので、さすがは神の中の神である天照大御神を主祭神とするだけあって、世界の環境対策に古来より余念がなかったわけである。

宇治橋は五十鈴川に対してほぼ直角に架けられており、西岸から東岸を見た場合は約30度南を向いているのであるが、そんなこまかいこたあ、渡るあたしらにはわからないので、どーでもいいのであるが、一応書いておくのである、こらこらやめなさいって、ううう、誰か助けてくれ。

宇治橋の東側には島路山(しまじやま)があり、日の出は島路山からとなり、このため日の出が南寄りからとなる冬至を中心とする約2か月の間は宇治橋の鳥居の間からの日の出となるつーことであるので、お好きな方は冬至の時期に伊勢神宮に行って「ほほう、なるほど、ほんとに鳥居の間からご来光が見える、ああ、ありがたいありがたい」と感激していただきたいわけである。

まあ、撮れ高OKのカンペがとっくに出てるのに、ぐだぐだとどーでもいいことまで打ち綴って、ひとりよがりの霊能参拝おつむはぴーひゃららであるのである。

そのぴーひゃららをご堪能した方はさらに霊能修行を遂行するために、俗界のあれやこれやの汚れ穢れを五十鈴川に流して宇治橋を渡ってその先にある聖界の深遠を拝謁して頂きたい。

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2013年4月22日月曜日

伊勢神宮(内宮)正宮



ううむ、ネタが多すぎて、並べきれんな。

霊気神気を受ける動画2を作らんといけんかね。

つーことで、伊勢神宮(内宮)・皇大神宮の正宮であるのである。

そら、なんつっても、伊勢神宮本丸は内宮正宮であるのである。

まあ、異論を唱える人もおられるとは思うが、いってみれば、内宮である皇大神宮は旦那で、外宮である豊受大神宮はおかみさんであるのである。

お伊勢さんを語るには、やっぱり一家の主である旦那を取材しないことに始まらないわけである。

つーことで、象気功霊場取材班は照明さんも音声さんも兼ねたデジカメを構えて、正宮の周囲に参集する八百万の神々を網羅してその霊気神気を余すところなくお茶の間におとどけするのである。

まあ、ネットであるのでお茶の間かどーかはなんとも言えないのであるが、皇大神宮(こうたいじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社で伊勢の神宮の二つの正宮のうちのひとつであるのである。

一般には内宮(ないくう)と呼ばれ、式内社(大社)であるのである。

別宮(べつぐう)として、境内に荒祭宮と風日祈宮、境外に月讀宮、瀧原宮と伊雑宮のほか、境内・境外に27社・33座の摂社、16社・16座の末社、30社・30座の所管社を有するのであるのである。

主祭神は天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ・天照大御神・あまてらすおおみかみ)で、三種の神器のひとつである八咫鏡(やたのかがみ)を御神体とするのであるのである。

天照大御神は、よほどの迷妄無知蒙昧の人でないかぎりどなたもご存知の通り神話に登場する太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)の一柱とされる神で、日本民族の総氏神とされている、まあ、いわば日本一のこの上なくえらーい神さまであるのである。

相殿神として、岩戸隠れの際に岩戸から顔をのぞかせた日本一のこの上なくえらーい神さまである天照大御神を引きずり出したという乱暴無体な男っぷりの天手力男神 (あめのたぢからおのかみ)と、天照大御神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ万幡豊秋津姫命 (よろづはたとよあきつひめのみこと)を祀るのである。

まあ、複数の神社を参拝する場合、格の高い神社から低い神社の順が一般的であるが、伊勢神宮の通常の神事は外宮、内宮の順で行うのである。

これを外宮先祭と呼び、参拝も外宮、内宮の順で行なうのが正しいといわれるのである。

ただし式年遷宮の遷御は皇大神宮、豊受大神宮の順であり、奉幣は豊受大神宮、皇大神宮の順であるのでややこしいっちゃややこしいのであるが、古来よりの慣例であるので一般霊能者のあたしがどーのこーの口を差し挟むことではないのである。

あまりの神々し示唆にひれ伏して、神使をなりわいとする象師匠といえども石段下からの撮影であるのであるが、石段前の立て札に「撮影は石段の下で」と書いてあることとまったく無縁ではないのである。

さすがにその冷気神気の波動神降ろしは鳥居と拝殿の周囲に神気波動のブロッケン現象を伴ってあたしの身体を押し戻すのである。

それを受けることができるとすれば、日頃の精進潔斎によるたまわり物であるのは言わずもがなのことであるのであるので、さらに高みに消化するために寝食を忘れ修祓の日々に専念することを祈念してやまないのである。

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2013年4月20日土曜日

伊勢神宮(内宮)参道



三重県伊勢市にある神社本庁の本宗である伊勢神宮には、太陽を神格化した天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(こうたいじんぐう)と、衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の二つの正宮(しょうぐう)があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれるのである。

その内宮の参道を宇治橋から正宮まであれこれふるべゆらゆらとふるべと鎮魂魂振しながら巡礼行脚したのである。

神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考えるので、これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが鎮魂(ちんこん・たましずめ)であるわけである。

「たまふり」はその繋ぎ止めた魂を外から揺すって活力を与えることである。

象気功でも解説してる通り、人間の活力には身体の活力はもとより、霊体の活力増強のためにも「揺する」ことが必須であるわけである。

何ごとも揺すっとけ揺すっとけであることをよーく理解するとこの世浮き世はお気楽極楽あら素敵てなことになるのである。

え?ならない?

そら、あーた、信心が甚だしく足りないのであるから、神棚祭壇に大御饌を備えて大祓祝詞を毎日3時間これでもかと修祓しなさいね。

え?バカバカしくてそんなことできない?

そらそうだ。

そらそうなのかよ。

きりがないので、まあ、とにかく神道の元締めの神社本庁の本宗であるから、慣例作法に従い先に参拝した外宮も広いのであるが、内宮はこれまた、それに数倍する広さで、行けども行けども行けども行けども、なーかなか正宮まで辿り着かないのである。

まあ、それもこれも、健康祈願のご利益を歩くことで成就させようてな配慮があるのかないのか、毎日参拝すれば健康になること請け合いであるが、あたしら東京もんは毎日はとても毎日は来られませんので、一生に数回の健康成就ご利益であるのである。

まあ、境内参道には数知れないご神木が立ち並び、そのすがすがしさだけでも精神的疲労はこよなく払拭されて、あたしの心も体も軽々とこの世あの世の裏側中陰を彷徨うのである。

ううむ、この世あの世の裏側中陰を彷徨うって、それじゃ浮遊霊じゃありませんか。

てな冗談はここまでとして、おいおい、ここまでが冗談って、話はいったいどこへ行くのかね。

ううむ、あまいな、こんなことで笑いが取れりゃ誰でもコメディアンになれるのである。

コメディアンかよ。

霊能コメディアンつー新しいジャンルであるのである。

霊能であるから、生きてる人もすっかりお亡くなりなってる人もひっくるめて笑わせてなんぼであるのである。

まあ、生きてる人の笑いのつぼはだいたいわかるのであるが、これがね、お亡くなりになっちまった人の笑いのつぼてなものは、さすがに古今未曾有の大霊能者のあたしもお亡くなりになってみないことには定かではないのである。

それを取り締まる神さまの笑いのつぼは、神のお告げを宣布する神使とはいえ、神ならぬ身のあたしにさらにわかるわけもないので、まあ、当たれば幸いはずれて当たり前の下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる方式で、ギャグボケひとりツッコミ諧謔駄洒落の連打連発であるが、しまいには神罰仏罰が当たって悲惨な結末迎えること必定であるかもしれないのであるが、義理と人情の霊能伊達男としての華の散らせ方を世間様に知らしめて娑婆此岸浮き世の思い出としたいわけである。

ううむ、意味が分からない前に読めないという人は、大周天で脳の血行を良くしてさらに霊界通信神の声お告げ傍受に専念することが肝要であるのである。

つーことで、霊界通信神の声お告げ傍受には身体御霊をその波動の中に置いて振動を共鳴させることが必要であるので、そのためにはあなたのお粗末極まりない霊能力を総動員して動画の波動に魂体を形成するアートマ体モナド体を浸していただきたい。

ううむ、さすがに神のみ言葉だけに右から左から上から下から後ろから前からどうぞつーぐらい自由自在神出鬼没縦横無尽であるのである。

自由自在神出鬼没縦横無尽とゆーよりは、語彙が混濁してわけわからんがね。

末筆にてまことに恐縮ではあるが、アートマ体モナド体が揺り動かされて神の声が聞こえた方は、家族にご相談の上、おつむ専門の病院に即行していただきたいのはいうまでもないことである。

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2013年4月19日金曜日

伊勢神宮(外宮)土宮



土宮(つちのみや)は三重県伊勢市豊川町にある外宮(豊受大神宮)の境内別宮(べつぐう)である。

土宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓にある外宮の別宮である。

別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされるのであるが、伊勢神宮にある14の別宮はどれもこれも正宮につぎえらいわけである。

外宮の別宮は土宮のほか、境内に多賀宮(たかのみや)と風宮(かぜのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるのであるがううむ、これはいいか、いやそうもいかんだろうね、まあ、いい。

でね、土宮は多賀宮に次いで古く、多賀宮・月夜見宮に次ぎ3位であるからけっこうえらい神さまであるのである。

正宮前の池の横の亀石を渡った先の石段の左に風宮が、右に土宮があるのである。

亀石つーのは高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられているパワーストーンで、よーく見ると亀に見える石であるのである。

まあ、べつに伊勢神宮サイドではパワーストーンであるなんておっしゃられていないのであるが、まあ、そこはそれ、一般庶民のお楽しみとして三ツ石とともにおねーちゃん達が「きゃー、これよこれよ」つーことで写真をお撮りになっているのである。

土宮の祭神は外宮所在地の地主の神である大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)とされる。

伊勢神道の創設者である度会行忠さんが1285年(弘安8年)に記した「神名秘書」では、山田原地主の大年神、字迦魂神、土御祖神の土宮3座であったのであるが、ううむ、しかし、どうも真剣になんのことか考えられないのはなんでだろうね、あたしゃ興味がぜんぜんないつーことかね、これじゃ読んでる方はもっと興味がないかもしれないのであるが、しかし、なんつーいいかげんなアレだね。

「類聚神祇本源」によれば、「長徳検録」に外宮所管の田社32前の1座の土御祖社と記された。

「田社」は現在の末社に相当し、現在の摂社以下の扱いであった。

1128年(大治3年)、土御祖社は宮川の外宮禰宜の申請が朝廷に認められ、別宮に昇格し土宮となった。

そのころ宮川上流の開発が進み、度重なる宮川の氾濫に悩まされた外宮禰宜が、地主の神を昇格させ洪水防護の祈念の効果を高めようと考えたことによるのである。

しかし、これ、人間が神さまの神格を昇格させるつーのもおこがましい限りの話であるが、あなたが今この瞬間に生きてることとそのうち必ずお亡くなりになること以外は何ごともすべからく幻想であるんのでお楽しみのひとつであるのである。

なにしろ第3位であるので、皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、祈年、月次、神嘗(かんなめ)、新嘗(にいなめ)の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があるのである。

帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌(しんせん・神社や神棚に供える供物)以外のものの総称であるのであるが、「延喜式」の祝詞の条には、幣帛の品目として布帛、衣服、武具、神酒、神饌などが記されているのであるので、広義は神饌も含まれるのであるが、さらに興味がないので、もう、このへんでやめてやめておとーちゃんなにすんの、ええかげんにしなさいっ、なんで?。

さて、土宮の神気の霊波動は心穏やかに平穏を醸成してあなたの魂を揺り動かす魂振り神事とはかくありなんという波動共鳴の威力を受けるには、日々の修祓で右脳を活性化してあなたの御霊を動画の波動の中にいざない、その振動を賞翫する意思を神に向けることが重要であるのである。

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2013年4月16日火曜日

伊勢神宮(外宮)風宮



三重県伊勢市豊川町にある伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の境内別宮・風宮(かぜのみや)である。

風宮の祭神は、内宮(皇大神宮)別宮の風日祈宮と同じ風雨を司る神とされる級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)である。

古くは農耕に適した風雨をもたらす神であり、現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社)であったが、1281年(弘安4年)の元寇の国難に際し神風を起こして日本を守ったとして別宮に昇格したのである。

風宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓に位置する外宮の別宮である。

外宮正宮前の池の横の多賀宮への参道にある高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられる亀石を渡った左側に風宮があるのである。

別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされ、外宮の別宮は風宮のほか境内に多賀宮(たかのみや)と土宮(つちのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるのであるが、風宮が別宮となったのは1293年(正応6年)と最後であり、4別宮の中では第4位とされるのである。

風宮の由緒に関しては、997年(長徳3年)の「長徳検録」に外宮所管の田社32前の4位の風社と記されたとの、度会家行さんによる「類聚神祇本源」での引用が最古であるつーことであるのであるが、なにしろ昔のことであるのでよくわからないつーことである。

「田社」は現在の末社に相当し、現在の摂社以下の扱いであり、風神社は末社相当であったが、祭神が生活の基本である農耕に都合のよい風雨を司る神であることから風日祈祭が行なわれ、五穀豊穣の感謝祭である神嘗祭(かんなめさい)においては懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視され尊重されるようになったのである。

前述の1281年(弘安4年)の元寇では朝廷より為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、内宮の風神社と外宮の風社で祈祷を行なったのである。

それが台風の時期であったためにそこに台風が通りかかって、当時はCNNのワールドウェザーてな天気予報もなかったので何も知らずに日本に押し寄せた元軍はえらいめにあって退却し、日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利として1293年(正応6年)に風神社と風社は、「あんたらはえらい!」つーことで別宮に昇格され、内宮・風日祈宮(かぜひのみや)と外宮・風宮(かぜのみや)となったのである。

江戸時代末期にいわゆる黒船来襲てなことで欧米諸国が日本を訪れるようになり、異人さんが怖いてなことでお困りになった朝廷は1863年(文久3年)5月に風日祈宮と風宮で攘夷の祈願を15日間行なったのであるが、残念ながら台風の時期ではなかったせいなのかどーなのか神風は吹かず、文明開化となり日本自体が欧米化してしまったのである。

1876年(明治9年)の伊勢暴動の際には、月夜見宮近隣の町が炎上し、宮への類焼が懸念されたことから、月夜見宮の神体が一時的に風宮へお引越しされたつーことであるが、だからなんだといわれても、あたしにもお答えしようがないのである。

毎年5月14日と8月4日に風雨の順調と五穀の豊穣を祈る風日祈祭が行なわれるので、興味のある人、あるいは家庭菜園などがご趣味のの人はいっしょに祈るといいかもしれないのであるが、もう飽きてきちゃったので本日の収録はこのへんで終わるのである。

なにしろ、神さまの中の神さま伊勢神宮であるので、14の別宮、109の摂社末社所管社から成り立っていて、盛り沢山すぎて、もうこれ、参拝しきれないのであるが、まあ、どれが重要でどれがどーでもいいてな問題でもないのでどれもこれもありがたいありがたいであるのである。

まあ、あたしは直接ご来駕申し上げて、その御利益をダイレクトに受領してしまうわけであるが、そのお裾分けつーことで象気功読者諸氏諸兄諸姉に動画から霊気神気の波動をお届けするわけである。

まあ、お気づきの方も少なからずおられると思うが、魂体の界層は嘗てない方向に浮動しており、正確にあなたの座標軸を調整してその方向に第三身体の波動を調律しないと取り残されてしまうのである。

その波動を調律するためにも、あなたの第三身体をこの動画の中に送り込み、霊波動の磁場の海に浸かることが肝要であるのである。

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2013年4月15日月曜日

伊勢神宮(外宮)多賀宮



多賀宮(たかのみや)は三重県伊勢市豊川町にある外宮(豊受大神宮)の境内別宮である。

多賀宮は豊受大神宮宮域内正宮南方の小丘である檜尾山(ひのきおやま)に鎮座し、主祭神として豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)を祀る豊受大神宮の第一別宮であるのである。

伊勢神宮の別宮(べつぐう)とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされるのである。

山頂にあるので高宮(たかのみや)であったのであるが、縁起のよい字を当て多賀宮(たかのみや)になったと考えられているのであるが、考えられているのであって、それがビンゴであるかとーかはあたしからはなんとも言えないのはゆーまでもないことであるのである。

神さまに対してビンゴがジャストミートかどうかはさらになんとも言えないのはさらにゆーまでもないことであるのであるが、多賀宮の権威に対して揶揄しているとゆーことではさらさらないのはさらさらにゆーまでもないことであるので、巫者としてのあたしのお役目を損なうものではないということをここに宣言してしまうのである。

ううむ、巫者ってなんだ?

さすがに神のお告げだけに知らん言葉がどんどん出てくるな。

巫者(ふしゃ)とは神がかりの状態で神託を告げる者つーよーなことであるのね。

ほほう、なるほど、つまりあたしみたいなおつむが大変お壊れになったぱーとゆーことか、あはははは、やかましいっ。

ひどい蛇足文であるのである。

蛇足文とゆー言葉さえあるのかどーかわからんのであるが、例によって指が勝手に動いてキーボードを叩いちゃったのでしょーがないのである。

つーことで、外宮の別宮は多賀宮のほか境内に土宮(つちのみや)と風宮(かぜのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるが、多賀宮がもっとも古く、外宮の4別宮のうち、「止由気宮儀式帳(804年)」と「延喜式神名帳」に記載されているのは多賀宮のみであるのであることからいっても、伊勢神宮でもっとも由緒格式の高い別宮であるとゆーことができるかもしれないとゆーことであるのである。

正宮前の池の横の亀石を過ぎ、土宮と風宮の間にある石段を98段登った丘の上に多賀宮があるのであるが、亀石は高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられているのであるので、亀というとなんとなく間抜けであるがパワーストーンの噂も高いあっぱれな石であるので、あだやおろそかにしてるとあなたもあたしもあらうふんになるのである。

うちの神さまはオチが見えなくなるとあらうふんまたはあらいやんでごまかすのである。

なにしろあたしが書いてるわけではないので、あたしに文句を言われても困るのであるが、ううう、さらにオチが見えなくなってしまったのである。

戯れ言はさておき、ご親切なことに、足腰が悪く丘の上に登れない参拝者のために、麓の池のほとりに多賀宮遥拝所が設けられているのであるが、あたしはもちろん足腰がものすごく強いので、カメラ片手に颯爽と急峻な98段の階段をスタスタと上がり、後ろ姿が艶姿のおねーさん方をどんどん追い抜いて、あっというまに拝殿前にたどり着いたのである。

なにしろスタスタであるのである。

ノタノタでもノタクタでもペタペタでもなくスタスタであるのである。

これはいるのかとゆーご指摘もごもっともであるが、いらないかもしれないとだけお答えしておくのである。

ううううううう。

まあ、とにかく、祭神が外宮の祭神の豊受大御神の荒魂である豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)であることから、四つの別宮の中で最高位とされるわけである。

荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま、にぎたま、にきみたま、にぎみたま)とは、神道における概念コンセプションで、神の霊魂が持つ二つの側面のことであるが、荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂であるのである。

神はときに天変地異を引き起こし、疫病を流行らせ、人の心を荒廃退廃させて争乱へ駆り立てるわけであるが、この神の祟りは荒魂の表れであるとゆーことができるわけである。

てなことであるから、多賀宮で不遜な参拝をするなんてことはもっての他であるので、作法に気をつけて、慎重にことを運ばなくてはならいのはゆーまでもないことである。

あたしはお告げに従い作法通りにまず鳥居の前で一礼し、さらに拝殿の前で深々と一礼し、それから二礼二拍手の後、全身全霊を持って謝礼御礼気祈念を果たし、一礼し、一歩下がって深々と一礼し、鳥居を抜けてさらに一礼してとっとと退去したのである。

なにしろ古すぎて、壮健の詳細なデータがあるわけもないのであるが、雄略天皇22年(478年)の外宮創祀と同時に創建されたと伝えられており、明治から「大神宮式」を基準とし高宮の表記が廃止され、多賀宮とのみ呼ばれるようになったつーことでご勘弁いただきたいのである。

何をご勘弁いただきたいのかは、後日、折を見て縷縷解説する予定もさっぱりないのであるが、いったいどーすんだこれ。

また、多賀宮専用の忌火屋殿があったが、明治に廃止されたつーことである。

忌火(いみび)とは、宮中、伊勢神宮などの重要な祭にあたって、新しく鑽(き)り出される火のことで、他の神社においても鑽火神事(きりびのしんじ)として行われるのである。

ううう、ディテールをいちいち詳細に解説して行くといったいいつになったら終わるのかわからんようになって途方にくれるのであるが、責任者出てこいっ。

ああ、責任者はあたしだ。

ううむ、ほんまにくだらん。

情けなさで涙が止まらんまま、多賀宮では豊受大神宮(外宮)正宮に準じた祭事が行なわれ、祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、外宮の別宮のうち多賀宮のみに参行するつーことであるから、外宮でも別格の別宮であると言えるわけである。

誰かはたしてこんなどーでもいいことを読んでる人が一人でもいるんだろうかと、そんな愚痴までネタにして、さらに、多賀宮の社殿は外宮に準じ外削ぎ(そとそぎ・神道用語で千木の先端が垂直に切られた形状)の千木(ちぎ)と、五本で奇数の鰹木(かつおぎ)を持つ萱葺(かやぶき)の神明造(しんめいづくり)で南面しており、遷宮のための古殿地(新御敷地)は東西に隣接しているつーことであるが、物見遊山のあたしにはもう限りなくどーでもいいのでなんことやらさっぱりであるのである。

千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、神社建築などに見られる建造物の屋根に設けられた部材であるのである。

千木は屋根の両端で交叉させた部材であり、鰹木は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材である。

写真を見れば一目瞭然のことを文章にすると興味のないものにはこのようにまったく意味不明になるのである。

ううむ、いかん、どーもちょーしに乗って書きすぎるな。

とっくに尺は足りてるのであるから、いいかげんにやめるのである。

文字が多いと読む気にならんから意味ないがね。

つーことで、荒ぶる神の社をこよなく睥睨して、神にも睥睨されて、あたしの荒ぶる魂はその波動に揺さぶられて、その力は無限に漲ることとなり帰りは一気に階段を駆け下りてすってんころりんしてイテテテであるのである。

すいません、わたくし無理に面白くしよーと思って嘘をついてしまいました。

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2013年4月14日日曜日

伊勢神宮(外宮)のパワーストーン三ツ石



伊勢神宮(外宮)の正宮前にあるパワーストーンの三ツ石である。

名にし負うパワースッポットの日本代表伊勢神宮境内にあるパワーストーンであるら、言ってみればパワーストーンの日本代表とゆーことであるのである。

この三ツ石は、正式には「川原祓所」(かわらはらいしょ)と言い、伊勢神宮の式年遷宮の際に神宮祭主や奉仕員を祓い清める修祓祭祀が行われる場所であるのである。

昔はこのあたりを宮川の支流が流れていたのであるが、明応7年(1498年)の地震でその流れが変わり、現在は川はなくなり、少し離れた場所が池となっているのみである。

しかし、式年遷宮の祭祀が行われる場所であるということもあり、川原だったことの名残りとして三ツ石が残されているそうであるのであるが、とにかくスピマニア垂涎の強力なパワースポットであるつーわけである。

それで、その周囲を紙垂(しで)を挟んだしめ縄で囲ってあるので、日本人の習性としてこーいったものを見かけたらとにかくありがたいありがたいとゆーことでお賽銭を投げてしまうので、三ツ石の周りはかなりの量の硬貨が投げられているのである。

小学生時代に培ったそろばん3級の強力な暗算脳力を発揮してざっと見積もった所、小銭とはいえこれだけ集まると、少なく見積もっても千数百円はあるのである。

まあ、そろばん3級の暗算脳力をどこで発揮しのかは不明であるが、基本的に伊勢神宮は賽銭をしてはいけないのである。

神さまに向かって小銭を投げつけるてなことは失礼千万この上ない行為であるので、あたりまえっちゃあたりまえであるのである。

しかし、そうはいっても、神社本庁頂点の伊勢神宮みたいな大手はともかく、末端の弱小神社分社末社の経営状況をご推察申し上げると、物見遊山参拝時にはあたしだって思わず賽銭箱に「ほらよ」と小銭を投げ入れてしまうのであるが、これは、あくまでも経営上あるいは歴史的建造物等の保存経費等を考えての行為であるのであって、けっして神さまに小銭を投げつけているわけではないのである。

しかし、なんだかんだいっても、これだけ我も我もと賽銭を投げる人が多いのでは防犯上からも三ツ石の前に賽銭箱を置かないといけないかもしれないのであるが、賽銭箱の前で式年遷宮の祭祀を執り行うのも変であろうから、そうもいかないのかどーなのか、とにかく石の上や周囲にこれだけの量の賽銭硬貨が投げられているのである。

それで、三ツ石を撮ってたら、袴姿の神職のお二人が大きな袋を持ってその硬貨を集めに来たので、すぐさまその労をお撮り申し上げたのであるが、考えてみたら少なからず差し支えある光景であるので、掲載はご遠慮申し上げるのである。

なにしろ、ただの石であればこんなに賽銭が集まるわけもないので、集金力から言っても、三ツ石は強力霊妙なスピリチュアルパワーを持っているわけである。

伊勢市まで足を運ばなくてもその集金力パワーも含めた霊気神気のご利益を独り占めできるのがこの動画であるので、じっくりとご堪能いただきたいが、お賽銭を動画に投げつけるとモニターが破損しますよとゆーことをひとこと言っておくのである。

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2013年4月13日土曜日

伊勢神宮(外宮)正宮



伊勢神宮・外宮は正式名は豊受大神宮である。

馬鹿丸出しで東京から動画を撮るために仕事を放り出して車を飛ばして三重県伊勢市のこの地まで参上したのである。

あたしはいったい何をやってるんでしょうかつー疑問もふつふつと沸騰して沸き上がる今日このごろであるが、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は、前述の通り、三重県伊勢市にある神社で、伊勢神宮の二つの正宮のうちの一つで、主祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)であるのである。

内宮である皇大神宮正宮ととも、日本屈指最高最大のパワースポットであるのである。

ここで、神のエナジー霊波パワー神威神変のご利益を受けずしてなんの聖地聖域神域霊域霊場参りかとゆーことであるのである。

豊受大御神は、第二十一代雄略天皇の二十二年(西暦五世紀)に天照大御神のご神慮によって丹波の国(現在の京都府北部)から、この度会(わたらい)の山田原(やまだがはら)にお迎えもうしあげたと言い伝えられているつーことであるのである。

なにしろ西暦五世紀であるので、もちろんあたしが見たわけではないし、何がなんだかわからんので、言ったもん勝ちであるので、「ああ、そう」としかいいようがないのであるが、なにしろ日本屈指最高最大の神気波動パワースポットであるので、そんな不遜なことは心の底にしまっておいて、けっして口に出したりしてはいけないのであるが、うっかり書いちゃったもんはしょーがないのである。

豊受大御神は天照大御神のお食事である大御饌(食物)を司る神であり、済度一般衆生の衣食住一切の産業の守護神であるのである。

豊受大御神の日本神話における神名はトヨウケビメで、「古事記」では豊宇気毘売神と表記されているのである。

「日本書紀」には登場せず、別称を豊受気媛神、登由宇気神、大物忌神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、とよひるめ、等々であるのである。

「古事記」では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されているつーことであるのである。

神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神であるが、後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂尊)(うがのみたま)と習合し、同一視されるようになったのである。

伊勢神宮外宮の社伝(止由気宮儀式帳)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされているつーことであるので、即ち、元々は丹波の神ということになるわけである。

神さまも一人暮らしでは食生活が安定しないとおっしゃられているのである。

また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)というのであるが、もちろん、外宮境内には別宮として多賀宮が祀ってあるのである。

外宮の神職であった度会家行(わたらい いえゆき)が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は天照大御神を祀る内宮よりも立場が上であるとしていると言い張っているつーことであるのであるが、物見遊山のあたしの立場からはなんとも言いようもないので、まあ、仲良くやってもらいたいもんである。

内宮、外宮ともに今年平成25年の「第62回式年遷宮」に向けて、平成17年から諸祭・行事が進行中であるので、工事中であるのである。

神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる定期的に行われる遷宮である。

遷宮(せんぐう)とは、神社の本殿の造営または修理の際に、神体を従前とは異なる本殿に移すことであるのである。

神宮では、原則として20年ごとに、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の二つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷し、このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、装束・神宝、宇治橋なども造り替えられるのである。

20年毎の遷宮により建て替えられる正殿は、唯一神明造りという日本古来のい建築様式を伝え、ひのきの素木を用い、平入りの高床づくりであるということであるが、正宮の鳥居から先の神域は撮影禁止であるので、神の遣いの象師匠といえどもカメラを回すと係のおじさんに「こらこら、そこの人、撮影禁止ですよ」と怒られるので、残念ながら動画は鳥居の前までであるのである。

たとえあたしのような神の御子神の遣いの大霊能者であっても、郷に入っては郷に従えという人間界の重要な規範に従わないといけないのはいうまでもないことであるのである。

また、文章がてきとーになってるのであるが、ぞれもこれも神の思し召しであるのであるから、ご意見批判苦情にはいっさいお応えしないのである。

まあ、正宮鳥居の外側からとはいえ、外宮境内全体の神気も相まって得も言われぬ美しい波動で、正宮正殿からの波動はさらに清冽な振動があたしの体内の振動を揺り動かし、「ああ、これが伊勢の豊受大御神のはどうであるなあ」としばしの感慨にむせぶことしばし、はっと我に返って、霊能レポーターとしての御役目に立ち返り、最高の神気をカメラに収めんと命がけで霊能力を発揮してのこの神域参拝であるのである。

もういいだろ、このぐらいで。

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2013年4月9日火曜日

伊勢神宮(外宮)表参道



伊勢神宮・外宮(げくう)であるのである。

伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社で、皇大神宮(こうたいじんぐう)・内宮(ないくう)と、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)・外宮(げくう)の両正宮(しょうぐう)を中心として、14の別宮(べつぐう)、百九所の摂社・末社・所管社から成り立っているのである。

外宮・豊受大神宮の主祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)であるのである。

豊受大御神は神名をトヨウケビメといい、皇大神宮(内宮)に鎮座まします天照坐皇大御神(あまてらすおおみかみ)の食事である大御饌(おおみけ)を司る神であるのである。

ついに、古来より至高至貴神社と仰がれ、日本全国の神社の総親神、神社神道の総元締め、神社本庁の本宗(ほんそう)である伊勢神宮に、古今未曾有世界屈指の大霊能者象師匠がはるばる東京より御来車御来臨遊ばしたのである。

ううむ、さすがにどーやってもこーやっても漢字だらけになるのであるが、まあ、「饌」以外はだいたい当用漢字の範囲内であるので、このぐらいはご勘弁いただいて先に行くのである。

言わずもがなのお為ごかしのお詫びをつつがなく書き添えて、日本の神道界の頂点伊勢神宮と、全世界霊能界の頂点を目指す象師匠との、いわば頂点対決であるのである。

まあ、この場合、対決という表現が相応であるかどーなのかは後の世の衆生済度の判断を待つとして、神霊と生き霊(いきすだま)の対決といってもいいわけである。

既に霊能王国タイランドの霊能界を席巻して、霊能界の世界制覇目前の不肖象師匠としては、相手にとって不足はない初顔合わせの一番であるのである。

相撲かよ。

神代における建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方神(タケミナカタ)の対決を起源とする相撲は神事でもあるので、まさに神霊界を2分する東西横綱同士の大一番とゆーこともできるのであるが、言いたい放題も度が過ぎるとそのうち誰かに怒られるのである。

とゆーことで、伊勢神宮の正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)であるが、他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあるのである。

また、一般衆生は親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも呼んだりするのである。

二十二社(上七社)の一社であり、日前神宮、國懸神宮とともに、日本における神道の神に授けられた位階である神階が授与されたことのない神社の一社であるのである。

二十二社(にじゅうにしゃ)は、神社の社格の一つで、国家の重大事、天変地異の時などに天皇の命により神社・山陵などに幣帛(へいはく)を奉献するという奉幣(ほうへい)を朝廷から受けたのであるのである。

幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌(しんせん)以外のものの総称であるのである。

神饌とは、日本の神社や神棚に供える供物のことで、御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれるのであるのである。

古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟の一つとされ、明治時代から戦前までの近代社格制度においては社格の対象外とされたのであるとゆーぐらいえらい、神社の中の神社であるのである。

伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮と呼ばれ、豊受大神宮は外宮と呼ばれるのである。

内宮と外宮は離れているため、観光ツアーなどでスケジュールの都合上、お時間が限られてる場合は内宮のみの参拝の皆さんが多いそーである。

しかし参拝作法としては、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しい作法とされているのである。

もちろんあたしは全世界70億人の魂魄(こんぱく)・御霊(みたま)を導く大霊能者というお役目柄、外宮参拝を省略などとゆーことはできるわけもないので、その作法慣例に従い、まずはこの外宮に来車来臨参上して、入り口である表参道火除橋を渡り、第一鳥居、第二鳥居を経て、正宮まで自ら徒歩にて玉砂利を踏み鳴らし、ご参拝遊ばしたのである。

いやはや、さすがに日本の神社神道を仕切る本宗とされるだけに、その広大さは外宮といえども大変なもので、行けども行けども豊受大御神の鎮座まします正宮までは遙かなる道のりであるのであるが、でもなんだかんだで表参道火除橋から正味10分ぐらいかね。

まあ、神社参拝のご利益は参道の階段に代表される血行促進体力増強が基本であるので疲れるほどよろしい効果があるのである。

人間は、何はなくとも健康であるのである。

結局そこかよ。

そーゆーことで、伊勢神宮外宮の広大無辺の境内からの鴻大勁烈なる波動を受けてさらなる霊格の高みへ飛翔できた人は幸いであるのである。

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2013年4月3日水曜日

住吉神社(東京都中央区)



住吉神社(すみよしじんじゃ)は、日本の東京都中央区佃にある神社である。

旧社格は郷社で、祭神は住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(あずまてるみおやのみこと、徳川家康)であるのである。

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、主に住吉三神を祀る神社で、日本全国に約600社あり、この佃の住吉神社もそのひとつであるわけである。

隅田川の堤防沿いの遊歩道ジョギングコースから住吉神社までの参道があり、まあ、あたし同様に物見遊山でうろうろする月島佃島観光客の散歩散策コースでもあるのである。

あたしの生家の近所にも住吉神社があって、なんとなく懐かしさで涙も溢れてくるのであるが、もちろん嘘泣きであるので、涙を拭くこともなく本殿拝殿の前に詣でて、ううう、珈琲飲んだらドーパミンがドバーと出たのかなんなのか、急に鎌倉に刺し身を食いに行きたくなったが、そんなことをしてると仕事がわやになるので、ぐぐっと我慢して、まあ、兎にも角にも、あたし同様物見遊山観光客のおじさまおばさまお二人連れと連れ立って隅田川遊歩道から鳥居をくぐってとんとんと階段を降りて参道に歩を進めると、どこから現れたのかあどけない女の子の姿をした座敷わらしが路地から現れてあたしの横をすり抜けて走り去ったのである。

言いたい放題であるのである。

しかし、これ、読んでる人いるのかね。

まあ、見れば一目瞭然言わずもがなである動画に文章ってのも、なんか意味が無いような気もするのであるが、そこはそれ、名にし負う作家小説家象師匠としては書かずにおれるか書きたいやりたい入れたい出したいあらこんなにたくさんあなたってすごいのねうふんつーぐらいの文章ちゅーどくマニアふりーくであるので、どーしても書きすぎて長くなりすぎて当節昨今の長文読解力欠如のぱーの皆さんに敬遠されること夥しく甚だしい結果になっていることは火を見るより明らかであるかもしれないのであるのである。

ううむ、火を見るより明らかって、いったい何の火なんだ?

こんなことまでいちいち食いついてるから、文章がさらに長くなって収集がつかなくなるのである。

それで、住吉神社であるのである。

まあ、この佃の住吉神社の周りは、その周囲に林立する近代的な高層マンションビルとは一線を画する、いわゆる佃島の雰囲気ふんぷんと香る香ばしい地域界隈であるのである。

なにしろ座敷わらしが路地を疾駆する美しい情景にもお目にかかれるという、心も緩み身も緩む、ああ、こんな下町に暮らせたらあたしの心も、もっと瑞々しい潤いに満ちた思い入れをたくさん持ってあの世に旅立てることであったろうと、おいおい、出棺の挨拶かよ、つーぐらいのありがたさで波動の周波数も下がり、天国極楽の脳波となるのである。

まあ、なんでも気持ちよくなれば剴切この上ないことであるのであるが、ううむ、剴切ってなんだ?

剴切(がいせつ)「ぴったりとあてはまること。このうえなく適切なこと。」

ほほう、なるほど、文章の脈絡から剴切は実に剴切であるわけであるなあ。

なんでこんな言葉が出てくるのかね。

住吉神社住吉三神のご利益は計り知れない威力があるのである。

つまり、これ、あたしの脳裏の壁龕に、20歳前後のみぎりに闇雲に多読した篇帙の語彙が聚合されており、それが、住吉三神の波動で脳が賦活化されて、ときおり、星霜遼遠の彼方に廃忘されていたものが突として迸発するわけである。

書いてる本人にも意味がわからないのである。

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富岡八幡宮



富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、東京都江東区富岡にある八幡神社である。

別名を「深川八幡」ともいうのである。

主祭神は応神天皇(八幡神)であり、相殿神として、神功皇后、仁徳天皇、天照皇大神、常磐社神、武内宿祢命、日本武尊、天児屋根命、竈大神を祀るのである。

まあ、どなたも富岡八幡宮というとこの深川八幡を思い浮かべるわと思うのであるが、本社は建久年間(1190年~1199年)に源頼朝が摂津国難波の蛭子神(現在の西宮神社)を勧請(かんじょう)して創建した神奈川県横浜市金沢区富岡町に鎮座する富岡八幡宮で、この深川八幡はその直系分社であるつーことであるのである。

氏子区域は、江東区の西部と中央区の東部であるのである。

鳥居をくぐってすぐ左横に伊能忠敬の銅像があるのである。

江戸時代の測量家である伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年に当社境内に銅像が建立されたてなことであるのである。

また、大相撲との関わりも深く、江戸勧進相撲の発祥の地としても知られ、しばしば境内で本場所も開催されたのであるのである。

特に明治維新以降、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道との関わりを強調することで生き残りをはかったためもあり、当社と相撲との結びつきが強まったつーことであるが、関係者に聞いたわけではないので、もちろん読みかじりであるのである。

現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるほか、境内には相撲にまつわる横綱力士碑などの数々の石碑が建っているのであるが、残念ながらスマホカメラは八幡神の霊気ご利益の波動を受けることを第一の旨として本殿遥拝殿に驀進しているので映ってないのである。

当社の一の宮神輿は日本最大の神輿とされ、あまりの大きさに1991年(平成3年)に初渡御が行われただけで以後は正面参道の神輿庫ショーウインドウに展示品として扱われているつーことであるのである。

この大神輿には10カラットのダイヤも埋め込まれているとゆー噂であるので、もちろん、あたしはショーウインドウのガラス越しに大神輿をくまなくご見学遊ばしたのであるが、10カラットのダイヤがどこに埋め込まれているのかわかならかったので、事実かどうかはわかんねーのである。

まあ、そんなことはともかく、八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めたのである。

誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされ、神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれたのであるのである。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)で、元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられるとゆーことあるのである。

八幡神は農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男センセーは鍛冶の神ではないかとご考察されているつーことであるのであるが、柳田さんも八幡神さんに直接聞いたわけではなかろうから、そこんところはあくまでも柳田センセーのご研究によるご推察であるわけである。

富岡八幡宮のご利益は、受験合格・学業成就・必勝・開運・除災招福・商売繁盛などであるそーであるが、まあ、古来より武士の信仰を集めたことでもわかるように、要するに勝負事がけっこういける神さんであるつーことであるわけである。

また、本殿裏にある御神木の対になっているイチョウの木は恋愛運アップのパワースポットてな都市伝説もあるのであるが、もちろん本来のパワースポットは八幡大神が鎮座する本殿拝殿であるのはいうまでもないことであるので、残念ながらご神木は収録されてないので、どーしてもご神木に抱きついて神気を頂きたいとゆーエナジーマニアは実際に足を運んでじっくりと抱きついてあらうふんと堪能していただきたい。

それでまあ、兎にも角にも絶好調で歩を進め本殿前に到着すると、厳粛な雅楽の奏上とともに八幡大神の肝魂溢れる霊気神気の波動振動があたしの体内の霊魂魂魄を揺さぶり、その勁烈たること言い表し難く、謹んでここにご報告申し上げる次第であるのである。

それをこの動画から受ける受けないもあなたの心の持ちようひとつであるのは言わずもがなのことであるのである。

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2013年3月31日日曜日

深川不動堂の開運出世稲荷社



深川不動堂の開運出世稲荷社であるのである。

深川不動堂の境内に入るとすぐ右側に、信心厚き善男善女により奉献された幟旗(のぼりばた)がはためき翻る中、総檜造り檜皮葺きの荼枳尼天尊社殿があるのである。

成田山新勝寺境内に鎮座する出世稲荷を分霊し勧請奉祀しているのであるのである。

分霊(ぶんれい、わけみたま)とは、神道の用語で、本社の祭神を他所で祀る際、その神の神霊を分けたものを指すのであるのである。

分霊を他の神社に移すことを勧請(かんじょう)といい、神道では、神霊は無限に分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされるのである。

尚、他の神社より祭神を勧請した神社を分祠(ぶんし)、分社(ぶんしゃ)、今宮(いまみや)などというのである。

勧請はその神の根源とされる神社(総本社・総本宮)から行われることが多く、分霊された神社(系列社)の社名は、勧請された神名に因むことが多いのである。

稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社であり、ほとんどの稲荷神社は伏見稲荷大社から神霊の勧請を受けているのであるのである。

そんなわけで、稲荷神社の大本の伏見稲荷から分霊(わけみたま)したものが市谷亀岡八幡宮の出世稲荷神社に勧請され、さらにその分霊したもがを成田山出世稲荷に勧請され、それをさらに分霊して深川のこの地にお取り寄せしたわけである。

また、稲荷は本来日本神話の宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主祭神とするのであるが、稲荷神が神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視されることから、この深川不動堂などの仏教寺院境内の稲荷社では荼枳尼天として祀られるわけである。

まあ、このくらい解説しておけば、そうとうおつむブレインのコンディションが芳しくない方々にもご理解いただけると思うのであるが、どーだかわからないのである。

毎年2月15日には例大祭、9月15日には開創記念大祭が盛大に執り行われるてなことであるが、この日はなんでもない日であるので、どちらの大祭も行われていないのである。

なにしろご利益が開運出世であるので、開運成就して立身出世栄達を遂げるわけである。

まあ、参拝したからといってどなたこなたも開運出世するわけでもないのは無論のことであるが、まあ、したほうがしないよりはよろしかろうという象気功論によりじっくりねっとりぐりぐりとご参拝申し上げたわけである。

社殿には五色の願い札や願掛け狐も多数奉納されており、稲荷社前の稲荷受付所御守売り場の願い札1体500円願掛け狐1体千円の販促に貢献すること多大で、商売繁盛を自ら成就されて、その御利益の効果を体現されておられるわけである。

鳥居の横にあるおおきなわらじは「わらじ守り」てなもんであるそーで、小さな絵馬のついたわらじに足災除け・諸願成就を願って書き、大きなわらじに結んで、足が丈夫になりますようにとか、足にケガしませんようにとか、商売がうまくいきますよーにとか、受験がうまくいきますよーにとか、試合に勝てますよーにとか、お金が儲かりますよーにとか、あのイケメンとなんとかなりますよーにとか、あのきょにゅーが嫁さんになりますよーにとか、いーろいろと言いたい放題でわがままをご祈願なさっておられるのであるのである。

この巨大わらじは旧本堂の階段下にもあって、まあ、要するに深川不動堂の名物みたいなことになってるのかもしれないのであるが、これも絵馬の売上販促に貢献すること多大で、お金儲けのうまいわらじであるかもしれないなんてことはわらじの神様に大変失礼に当たるので心に思っても口に出したりしてはいけないのである。。

無論のこと、あたしは象師匠であるので、相手が神様といえどもお願いはされてもお願いすることはないので、象源流参拝法にのっとり、二礼二拍一礼をもって御礼謝意謝辞謝儀感謝の言葉祝詞リップサービスをこれでもかと奏上申し上げたのであるのである。

ああ、ありがたいありがたい。

何がありがたいのかわからなくても何が何でもありがたいありがたいであるのである。

受ければ即あなたの脳に深く共鳴する荼枳尼天の霊気神気の波動振動にも増して、このありがたいありがたいが自らの脳波の波動振動の周波数を下げて、よろしいものを引き寄せるベクトルとなるのである。

これがありがとうではだめであるのである。

あくまでもありがたいなのである。

言霊が自分の体内脳内で完結成就しなければならないのである。

神はほかならぬ自己の躯体に鎮座ましましておられるからであるのである。

ノウマクサンマンダボダナンキリカクソワカであるのである。

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2013年3月29日金曜日

永代寺



永代寺(えいたいじ)は、東京都江東区にある高野山真言宗の寺院で、正式名は大榮山金剛神院永代寺であるのである。

本尊は象気功の元締めでもある歓喜天で、開基は長盛法印であるのである。

当寺は1624年(寛永元年)、長盛法印の開山により永代島に創建されたのであるのである。

元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」が富岡八幡宮の別当であったこの永代寺で開かれたのが深川不動堂の始まりであるてなことであるのである。

江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて、この深川永代寺が会場となったつーことであるぐらいのえらいお寺さんであるのである。

江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄えたのであるが、しかし、その後、明治初年の神仏分離により廃寺となったつーことであるのである。

旧境内跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになっており、それ以前の永代寺は深川一帯でも指折りの広大な寺院であったのであるのである。

その後、1896年(明治29年)に旧永代寺の塔頭(たっちゅう)の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたのが現在の永代寺であるのである。

塔頭は、本来、禅寺で、祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院であるのである。

それから転じて、寺院の敷地内にある、高僧が隠退後に住した子院のことも塔頭と呼ぶようになったのであるのである。

当地の地名・門前仲町(もんぜんなかちょう)は、もともとはこの旧永代寺の門前という事で名付けられたのであるつーことであるのである。

この永代寺は深川不動堂の参道門前町であるご利益通りの中程にあるのである。

見過ごされそうに小さなお寺さんであるが、本来はこのあたり一帯が永代寺の敷地であったわけであるので、あだやおろそかにしてはいけない由緒ある寺院であるのであるが、参拝客観光客はとにもかくにも深川不動堂にその足先が向いていて、永代寺にはお参りする人は稀であるのである。

しかし、そこはそれ、大霊能力異能力テレパシースキャナーのアンテナをぐりんぐりんと振り立ててお歩きになってる象師匠であるのであるから、この永代寺の横を通りかかった時にビビッとただならぬ電波お花畑を受信して、即座に境内に歩を進め、「ああ、やはりあなたの霊派であったか」と感嘆の吐息を漏らすこと数秒、直ちに歓喜天秘法大呪を修祓してううう、修祓はお祓いだが、まあ、なんでも仏縁であるので、やらないよりはやったほうがいいだろうつーことで、十八道契印浄三業から普供養まで十八の手印をあまさず印して、さらには歓喜天印をもってして「ナム・ビナヤカシャ・カシティモカシャ・タダヤタ・オン・ナヤカナヤカ・ビナヤカビナヤカ・タラヤカ・フリタラヤカ・カムカシッティ・カムカ・カチッタ・ソワカ」の歓喜天大呪も軽やかに秘法の海に身を投じて修法三昧の境地をこよなく三昧だけに三所攻めの指も軽やかにあそこもここもああんしてそんなことしたらだめようふふと感嘆したのである。

歓喜天であるから、そんなこともあんなこともありがたいわけであるので、そんなこともあんなこともありがたいありがたいとあなたのお心に留め置いて修法するのがよろしいのである。

ちなみに修法は「しゅうほう」ではなく「しゅほう」と読むのが正しいのである。

歓喜天は作法に甚だ厳しい天尊であるので、些細なことでもうっかり間違えたりすると天罰神罰覿面てなことであなたのこれからの人生は災厄災難だらけにならないとも限らんので、ひとことご注意申し上げた次第であるが、あら怖い。

え?お前が一番怖い?

はてさて、さあ、なんのことでしょうか、思い当たりませんが。

まあ、とにもかくにも、象気功の元締め、象の大神様のご霊験を受けて、人生が思うように運ばないあなたの波動を修正して、今後の人生の礎(いしずえ)を新たに組み直して頂きたい。

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2013年3月25日月曜日

深川不動堂



深川不動堂の正式名称は成田山 東京別院 深川不動堂(なりたさん とうきょうべついん ふかがわふどうどう)で、東京都江東区富岡にある真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院であるのである。

深川不動尊とも呼ばれるのである。

本尊はもちろん象気功言霊(コトタマ)メソッドの中核をなす不動明王であるのである。

それで、あたしが参拝したのは、これ旧本堂であるのである。

参拝客はあたし同様にどなたもこの旧本堂にお参りしてお帰りになられるわけであるが、旧本堂の向かって左側にある、動画に申し訳程度に映っているみょーな外壁の建物が現在の本堂であるつーことであるのである。

開創310年を期に平成23年(2011年)に完成し、同年4月16日の夜間に旧本堂より新本堂に本尊ならびに両童子、四大明王を遷座し、翌17日から護摩供養は新本堂で行われよーになったつーことであるのである。

それで、この新本堂のみょーな外壁は不動明王真言に包まれた「真言梵字壁」で、仏の力に守護された空間となっているつーことであるのである。

てなことであるが、あたしも含めて皆さんがお参りしている旧本堂内には日本最大級を誇る丈八(一丈八尺)の不動明王坐像「おねがい不動尊」が安置されているつーことであるのである。

平成23年4月までの本堂である旧本堂は関東大震災と第二次世界大戦によりそれまでの本堂が焼失してしまったため、千葉県印旛沼のほとりにあった龍腹寺の地蔵堂を昭和26年に移築し、現在は江東区の指定登録文化財となっており、区内最古の木造建築といわれているつーよーなことであるのである。

まあ、つまり、旧本堂は木造建築であるので、これまでの震災等による焼失の経験も踏まえて、これ、地震災害などに見舞われた時には、防災の面から仏像などを安置するには問題があるわけであるので、そのへんもふくめて建築法にのっとった構造で耐震防火設備が整ってる新本堂に移したわけであるのは当然であるが、なにしろデザインが先を行き過ぎてるつーのか凝りすぎつーのかシュールつーのか、どうみても、工事現場か倉庫であるので、やっぱりお参りするには旧本堂でないと気分がでないのは、どなたも同じであるわけである。

まあ、なにしろ、旧本堂はおねがい不動尊であるので、お願いするにはこちらでよろしいわけであるが、あたしは象源流参拝作法にのっとり、ひたすら「ありがたいありがたい」と御礼謝礼の言霊を怒涛の奉唱なされたわけである。

動画冒頭の門前の参道は通称“人情深川ご利益通り”てなことで、毎月1・15・28日に縁日が開かれて賑わうつーことであるが、この日はどの日にも当たらないのであるが日曜日であったので、大変に賑わってるのである。

人情深川ご利益通りであるので、ご利益目当ての人情善男善女が集うのを目当てに有名な人情菓子店や人情食事処がいろいろあるのであるが、昼時を過ぎてしまったので、人情食事処は営業してない店もあるのである。

のーまくさんまんだーばーざらだんせんだーまーかろしゃーだーそわたやうんたらたーかんまん

つーことである。

不動心気力体力養成養生には、とにもかくにも不動明王真言であるのである。

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2013年3月14日木曜日

東伏見稲荷神社



東伏見稲荷神社(ひがしふしみいなりじんじゃ)は東京都西東京市東伏見1-5-38に鎮座する神社であるのである。

京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建された神社であるのである。

分霊(ぶんれい、わけみたま)とは、神道の用語で、本社の祭神を他所で祀る際、その神の神霊を分けたものを指すのである。

分霊を他の神社に移すことを勧請(かんじょう)といい、神道では、神霊は無限に分けることができるつーよーな実に申し分の無い願ったり叶ったりの決め事法則原則により、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされるつーことであるのである。

他の神社より祭神を勧請した神社を分祠(ぶんし)、分社(ぶんしゃ)、今宮(いまみや)などというのであるのである。

つまり、神社は無限に増殖するということであるのである。

それじゃ神社はウイルスかよなどと不遜なことをゆーと立ちどころに神罰厳罰が下って、一生にわたり苦役大荷物を背負わされることになったりするのは如何しても回避不能 であるので、そこはそれ仮にも神様であるので、世話になってもならなくても、敬意を全面にあらわしてありがたいありがたいと拝み倒さねばならないのはゆーまでもないことであるのである。

「仮にも」はさらに不敬不遜であるので、「お仮にも」に訂正してして誠心誠意をもって衷心より心を込めてお詫びを奏上申し上げるのである。

しまいにバチが当たって豊川稲荷神罰の再現にならんともかぎらんのでこのへんでネタ見せは終了とするのである。

くれぐれも神様に楯突いたりネタにしたりしてはいけないとゆーことを力説唱道してあなたの明日の方向性をお導きして御挨拶の一助とするのである。

日本語になってないのである。

なお、東伏見という地名はこの神社が出来てからついた地名で、それにあわせて西武新宿線の駅名も上保谷から東伏見に変更されたつーぐらいの威力のある神社であるのである。

祭神は京都伏見稲荷大社の祭神の中から、宇迦御魂大神(うかのみたまのかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)の3柱を勧請し、この3座を「東伏見稲荷大神」と総称しているのであるのである。

境内は、「都民の日」制定30周年を記念して1982年10月1日に東京都によって選定された新東京百景のひとつに選ばれているぐらい朱色の社殿が境内の緑に映えて美しいのである。

なにしろ新東京百景であるのであるが、この日は節分の豆まきの用意で鉄パイプによる通路が設置されており、残念ながら新東京百景としてはいまひとつであるのである。

つーことで、まあ、たしかに景色としても綺麗な神社であるのである。

綺麗だからご利益があるかつーと、これがね、あるのである。

綺麗なものを見るとそれだけでも、よろしいホルモンが放出されて気持ちよくなるのである。

人生は何よりも健康つーことが目的であるのであるが、その健康には気持ちよくなる脳内ホルモンを放出するてなことが重要であるのである。

逆に気持ち悪くなる脳内ホルモンを放出するてえと、もちろん具合が悪くなって、それが続くとお病気になるのである。

だから、健康を求めるのであれば、とにもかくにも気持ちよくなるような状況をいかに作り出すことができるかということが、あなたの人生の方向性を決めるわけである。

人生をうまく運ぶか運ばないかは、気持ちよくなるような状況をいかに作り出すことができるかとう能力才能の如何ということであるのである。

そのひとつの方法が綺麗なものを見るということであるわけである。

さらにそのひとつの方法が適度に掃除をするということであるのである。

まあ、性格的に不浄乱雑不潔さらには醜穢醜悪な環境を好むマニアな人もいないではないので、それが気持ちいいといわれれば、まあ、それも一概に比定できないわけであるが、とにもかくにも、ふつーの感性感覚の範囲内の性格の皆さんは適度にお掃除整理整頓に心がけることが気持ちよくなるホルモンを放出させる環境を整えるということのひとつの方法であるわけである。

ううむ、なげーな。

どうも気が緩むと長くなるのがあたしのいけないアレであるのである。

まあ、てなことで、綺麗な東伏見稲荷神社の境内拝殿を拝して、さらには鎮座まします東伏見稲荷大神の皆さんに日頃の守りの感謝御礼を奏上して、あなたの波動をよろしい方向に調整していただきたい。

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2013年3月3日日曜日

築地本願寺



築地本願寺(つきじほんがんじ)である。

築地本願寺は、東京都中央区築地三丁目15番1号にある浄土真宗本願寺派の寺院であるのである。

本尊は聖徳太子の手彫とされる阿弥陀如来立像であるのであるが、「とされる」のであって、あたしが聖徳太子さんに聞いたわけではないので定かではないのである。

京都市にある西本願寺の直轄寺院である。

創建は元和3年(1617年)で、開基は准如(じゅんにょ)であるのである。

准如は、安土桃山時代から江戸時代の浄土真宗の僧で、諱(いみな)は光昭、院号は信光院であるのである。

さらに准如は西本願寺第十二世宗主で第十一世宗主顕如(けんにょ)の三男で教如(きょうにょ)の弟で、母は三条公頼の娘(細川晴元の養女)つーよーな高貴な母上であるのである。

だからなんだといわれても、そーなんだからしょーがないのである。

東京都内では代表的な寺院で、著名な人物の葬儀が執り行われることが多いのである。

この日もどなたかのご葬儀が執り行われていたのであるが、それが有名著名人であるのかどーかは定かでないのである。

この築地本願寺の現在の古代インド様式(天竺様式)の伽藍は当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあったインド様式の建築に精通した東京帝国大学工学部教授・伊東忠太氏による設計であるのである。

寺院も神社建築と同様、元来は日本古来の木造建築であるが、現代では、建築基準法や消防法の規定上、法定の規模を超える建物は鉄筋コンクリートとすることが義務化されており、昔のように大きな建物を木造とすることができないのであるが、築地本願寺は当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、1934年に完成しており、伽藍には大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔であり、本堂と石塀が国の登録有形文化財に登録されているのであるのである。

以前に参拝に来たときは、本堂伽藍の中は正面の本尊祭壇以外はコンクリートの土間であったように思うのであるが、この日は成人式が執り行われるためか、ものすごい数の椅子が並べてあったのである。

施設の案内によると本堂の収容人数は600人ということであるので600席かもしれないのであるが、もっと多いような気もするのであるが、関係者に確認したわけではないのでわかんねーのであるが、だいたいそんなもんかもしれないのである。

まあ、それで、これは1月下旬に参拝したのであるが、だだっ広い本堂伽藍の中では、お家が無くて路上でご生活をなされてる皆さんが椅子に座って昼寝をなさっていたりしたのであるが、この日は成人式が執り行われるてなことで、館内放送でご退出をご要望されたりしてるのである。

つまり、普段は昼間はお家のない方々がつかの間の居間としてご活用なされることをお許しなるつー、なんとも寛大な慈悲をこよなくお持ちになる巨大な伽藍同様に大きな仏心の器を持つ仏教寺院であるつーことであるわけである。

もちろん、居間としてご活用なされること自体が仏縁であるので、仏の縁起はどこまでも真理であるのである。

縁起(えんぎ)とは、仏教思想の根幹を醸成する考えのひとつで、世界の一切合切は直接間接に何らかの形でそれぞれ関わり合って生滅変化しているてなことであるのである。

あなたの人生運命はすべからく縁起によって構成されているわけであるから、故(ゆえ)あって路上でご生活を余儀なくされているお家のない方々も縁起を構成する大事な仏であるわけである。

いや、まあ、普段の館内を見た訳じゃないのでわかりませんが。

まあ、それで、トイレに行くついでに館内の裏方もあちこち観光してみると、結婚式や葬儀の控え室なんかがいろいろあって、この日は葬儀関係の方が僧服のような制服でたくさんお働きであるのである。

まあ、言ってみれば婚礼を扱う神社の後方施設と似たような造りになっているのである。

しかし、その後方の慌ただしいお仕事のご様子を撮影申し上げることは、霊能記者をなりわいとする象師匠とはいえ、大変失礼にあたるので差し控えたのは言うまでもないことであるのであるが、あたしは何を言ってるんでしょうか。

まあ、とにもかくにも、築地本願寺はその大きさも相まっておおらかで馥郁(ふくいく)とした霊気仏気が充満しており、南無阿弥陀仏の慈悲を余すところなく波動振動に変えてあなたの体内の仏を揺さぶり大きな振動へと導くこと請け合いであるのであるが、それもこれもあなたの日頃の心がけ鍛練訓練修養精進精励修行刻苦勉励謹厳実直の具合如何にかかっているのである。

漢字が多けりゃいいってもんじゃないのはいうまでもないことであるのである。

読みにくいだけではなく、意味もさっぱりわからないのであるのである。

反省してるのである。

つまり、すっかり飽きちゃったのであるが、神のお告げだからしょーがないのである。

仏のネタで神ってしかし、バチ当たるぞ。

あたしのあそこはあれがあれしてあれなんでしょうか。

あれあれ?

口からでまかせかよ。

あんたって笑わせないと気がすまないのねうふん。

ううむ、情けなくて死にそうだ。

まじめに読んでる人ごめんねごめんね。

まあ、なんだっていいやね。

やけくそかよ。

スピリチュアル   精神世界

2013年2月21日木曜日

Bangkok・Wat Pathum Wanaram バンコクのワット パトゥム ワナラーム(蓮寺)



タイ・バンコクのWat Pathum Wanaram(ワット・パトゥム・ワナラーム)であるのである。

正式名称はWat Pathum Wanaram Ratcha Wora Viharn (วัดปทุมวนารามราชวรวิหาร)であるのである。

この寺院の周囲一帯はかつてはセンセーブ運河のみを交通手段とする広大な水田地帯であったそうであるが、現在はタイ屈指の商業地帯となり、その往年の面影はまったくないのである。

BTS(バンコク・スカイトレイン)のサイアム駅にあるサイアム・パラゴンてな超高級デパートの隣にあるのである。

それで、寺院側から見ると、境内にあるタイの歴史物語に出てきそうな趣の仏塔のすぐ後ろ側に、サイアム・パラゴンの近代的な高層ビルが背景としてそびえ立っているのである。

実はこれ、BTSの高架下の通路であるスカイロードをチットロム駅からサイアム駅に向かって歩いている時に、高架下に何やら由緒ありげな建物があるのが見えたので、

「ううむ、あのあたりになんか怪しいもののけの霊臭と波動が漂ってくるではないか。これを観逃しては心霊除霊浄霊供養研究家としても名高い象師匠の面目が立たない、ここはひとつ、どんな心霊悪霊地縛霊憑依霊祟り霊がいるのかいないのか、ぐぐっと霊観霊視した上でタイの衆生の永遠なる安寧を祈願祈念祈祷をつつなかく修祓してしまおうではないか」

つーよーな高邁深遠崇高で支離滅裂なる精神一統テンションはいやが上にも高まり、勇躍雄飛大張り切りで走りだし、元気意気揚々意気軒高の精神状態ははちきれんばかりの意欲も勇ましくスカイロードをだだだっと駆け下りてついに物見遊山行楽見学観光なされたわけである。

タイ、ラオスにおけるWat ワット (วัด) とはパーリ語の avasa ないしサンスクリットの avasatha を由来とする言葉で、寺院を意味する言葉であるつーことであるのである。

ワット・パトゥム・ワナラームはロータス(蓮)寺とも呼ばれ、その後ろにプミポン国王の第3子でタイ王室の王位継承者の一人であるシリントーン王女のお住まいであるSa Pathum Palace.(サ・パトゥム・パレス)があるつーことであるが、シリントーン王女が現在お住まいなのかどーかは定かでないのである。

まあ、もうだいぶ前になるのであるが、ご存知のとおり当時のタイでは政治にご不満の皆さんがこの寺院にも立てこもったりなさって、いろいろとあれやこれやがあったりして、そのせいなのかなんなのかどーなのかわからんが、この日は観光客もいなくて、このあたり一帯がなんとなく寂しくて閑散としているような感じがするのはあたしのおつむがうふんいやんとあそこから乖離してるせいかね。

それでも、中に入ると寺の礼拝所にはタイの学生さんらしい男女数人がお参りしていて、お寺であるので、焼香をしてから、お釈迦さんやその他のお弟子さんたちの像にお参りしておられるのである。

日本のように寺の本尊が大日如来だの毘沙門天だの不動明王だのつーよーなわけのわからない皆さんではなく、当たり前であるが、仏教の寺院であるから、仏教の開祖のお釈迦さんの像を拝んでおられるのであるが、もちろん像であってお釈迦さんではないのである。

まあ、別にお釈迦さんは偶像崇拝をとくに禁じたてなことはないそうであるが、なんにもないと拝むにも心もとないので、まあ、固いことはいわないで拝みたいように拝めばいいわけである。

まあ たとえば仏教徒以外のぱーの皆さんもありがたがっていーろいろどーでもいいことをこれでもかとご本までいーろいろお出しになってる般若心経てなものも、最近ではちゅーごくの皆さんがでっちあげた偽経(疑経〉であるつーのがあたしら通の間では一般的であるが、真経にしても偽経にしても、お弟子さんあるいは後世の皆さんによるそれなりのでっち上げで、どー考えてもお釈迦さんがほんとに言ったのかどーかはわかるわけもないのであるから、まあ、お好きなようにお楽しみになればよろしいわけである。

いや、勘違いされては困るが、べつにあたしは仏教を批判してるのではないのである。

いつも言うことであるが、あたしは某宗檀家総代も勤めた護持会役員つまり世話人の1人で、一時期はほんとにその某宗の僧侶になってしまおうと思ったことがあるぐらいの敬虔真実一路な仏教徒であるのである。

でも、実際にうちの方丈にいろいろ聞いてみると、いろいろめんどくせーので僧侶になるのは止めたのである。

まあ、そんな与太話はともかくとして、寺の門の前にはロープが張ってあって入れないのかと思ったらば、タイの皆さんが端の方から入って行くので、あたしもいっしょにお入りになったら、スカイロードから見下ろして想像していたのとはちがって、中はけっこう広くて、整然としていて、綺麗で巨大な仏塔やら仏堂やらの建物がいくつもあって、悪霊も地縛霊も憑依霊も祟り霊も残念ながら跋扈(ばっこ)なされておられないのである。

そのお堂の間に淡々と箒(ほうき)を持って掃除をしてらっしゃる僧侶の方が数人おられたのであるが、今回、タイに来て僧侶を見かけたのはこのときだけであるのである。

寺の塀の外には蓮池があり、池の畔の大樹に、日本で言うしめなわのような飾りがあって、その根本で若い女性が2人拝んでおられたのである。

まあ、つまりご神木かね。

わははは、神仏習合であるのである。

お堂が開いてないので中は見れなかったのであるが、まあ、それはそれで、建築様式を観て歩くだけでも今生の楽しみとして黄泉の国の取締役員の方々への袖の下といたしたいわけである。

なにしろ神のお告げの自動書記御筆先であるので、なんのことだか書いてる本人もさっぱりわからないのである。

てなことで、ワット・パトゥム・ワナラームの霊気波動はあなたの波動脳波を共鳴させて、神界霊界あの世とこの世のつれづれ道連れになるのかどうかは、あなたの身体のレベルしだいであるのである。

スピリチュアル   精神世界

2013年2月18日月曜日

タイ・バンコクのセントラルワールドプラザ前のガネーシャ



タイ・バンコクのセントラル ワールド プラザ広場の一角の伊勢丹前にあるガネーシャの祠(ほこら)であるのである。

隣にはトリムルティ・Trimurti(三神一体・ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァは一体であるという近世以降の考え)の祠もあるのである。

まあ、祠つーとお地蔵さんや庚申さんてな仏像あるいは神像を祀った、道端にあるごく小さな小屋てな感じであるが、このセントラルワールドプラザ前広場のガネーシャとトリムルティの社殿は、祭壇や象さんの像などの飾り物を含めたその周囲の状況からすると、日本人的感覚では祠というよりは神社てな言い方がしっくりくるような規模であるのである。

しかし、日本の神社のような神社としての敷地があるわけではなく、デパートの敷地の一部にガネーシャ像の入れ物が置いてあるてなことであるわけであるので、やっぱり祠かね。。

まあ、英訳では祠はShrine(神社)あるいはSmall Shrineとなっているので、神社が神の社(やしろ)であるという本来の意味からすれば、神社でもよろしいわけである。

ううむ、ものすごくどーでもいいのである。

ガネーシャ(गणेश, gaNeza)は、ヒンドゥー教の神の一柱で、その名はサンスクリットで「群衆(ガナ)の主(イーシャ)」を意味するのであるのである。

同じ意味でガナパティ(गणपति, gaNapati)とも呼ばれるのであるのである。

また現代ヒンディー語では短母音の/a/が落ち、同じデーヴァナーガリー綴りでもガネーシュ、ガンパティ(ガンパチ)などと発音され、日本風ではガナバチイとなるのである。

まあ、これ、いずれにしても表記をカタカナにしただけであって、本来の発音と違うのは言うまでもないことであるのでこだわってもしょーがないの、お好きに発音していただきたいのである。

英語風に訛ればガーネッシュ(Ganesh)などともなるのであるが、それもこれも聞いた人の母国語によって、聞こえ方がさまざまであるので、お好きに発音していただきたいわけである。

ガネーシャは太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭に4本の腕を持つ神であるのである。

障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、学問の神であるとともに商業の神ともされるのであるので、タイの商業地域の中核の一つのセントラルワールドプラザ前の広場の一角に商売繁盛売上倍増の役割を担って鎮座ましましておられるわけである。

インドのマハラシュトラ州を中心にデカン高原一帯で多く信仰され、またご存知の通り日本でも歓喜天として信仰を集める人気の神様であるのである。

また、ガネーシャの像の中には杖を持っているものもおり、この杖は「アンクーシャ」と呼ばれている。

アンクーシャは象を御するための引掛け棒てなことであるが、ガネーシャが自分の象頭にアンクーシャを引っ掛けたりするてな支離滅裂なことをするのかどうかは、本人に聞いてみないことにはわからないのである。

ヴィナーヤカ(Vinayaka、無上)、ヴィグネーシュワラ(Vigneshwara、障害除去)、ガネーシャ(Ganesha、群集の長)、ガナパティ(Ganapati、群集の主)との神名を持つのであるつーことであるのである。

これはヒンドゥー教でよくみられるように複数の神名を持つのは、複数の神格が統合されたためと考えられるわけであるのである。

元来は障害神であったのが、あらゆる障害を司る故に障害を除去する善神へと変化したつーことであるのである。

ありとあらゆる障碍を除くことから、新しい事業などを始めるにあたって信仰され、除災厄除・財運向上のご利益でも信仰を集めているのである。

また智慧・学問の神でもあり、学生にも霊験豊かとされ、祈祷を始めとして、あらゆる開始にあたってまずガネーシャに祈りを捧げると良いとされるので、このセントラルワールドプラザのガネーシャにも合格祈願学問成就を願う学生さんとみられる皆さんが多数お参りなされているのである。

まあ、日本で言うと商売繁盛の稲荷さんと学問成就合格祈願の天満宮を合わせたご利益であるわけである。

象の頭を持つ理由の神話として、もっとも有名なものは、パールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで自分の子供を生んだのであるが、パールヴァティーの命令で、ガネーシャが浴室の見張りをしている際に、シヴァが帰還した。ガネーシャはそれを父、あるいは偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒んだ。シヴァは激怒し、ガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨ててしまったあとにパールヴァティーに会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけても見つけることがでず、そこで旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け復活させたつーことで、これが、ガネーシャが象の頭を持っている所以とされるのであるが、ちょっとトイレ。

まあ、それで、最も有名なマントラは、以下のものである。

Aum Shri Ganesha Namah

Aum Gam Ganapati Namah

マントラを唱える前には、手足を清潔に身を清めてから着座し、数回の調息を行ってから実施するようにしていただきたいつーことであるのである。

それでマントラは、108回、もしくは念珠の1周分もしくはそれ以上の周回分を唱えるのであるのである。

ガネーシャのマントラは、あらゆる悪・障碍・悪霊を退け、財産・智慧・成功をもたらすとされるのであるのであるから、これもう、天下無敵、極楽往生、あなたもあたしもあそこはキリマンジャロてなぐらいりがたーいご利益満載であるのである。

日本密教(台密・東密)の天台宗・真言宗ではガネーシャを起源に持つ歓喜天(聖天)が天部の護法神、鎮守神として信仰されるのである。

歓喜天(かんぎてん、Skt:Vinayaka、गणपति Ganapati、もしくは ナンディケーシュバラ nandikesvara 歓喜自在天)は、仏教の守護神である天部の一つであるのであるつーよーなことであるのである。

また、聖天(しょうでん、しょうてん)、大聖歓喜天、大聖歓喜大自在天、大聖歓喜双身天王、象鼻天(ぞうびてん)、天尊(てんそん)。あるいはVinayaka、Ganapatiを音写して、毘那夜迦(びなやか)、誐那缽底(がなぱてい)ともいうのであるのであるが、音写であるので、むりやり当てはめただけで、古代ヒンディー語の本来の発音とは似ても似つかないかもしれないのはご理解いただきたいわけである。

歓喜天を祀る代表的な寺院は、生駒(いこま)聖天・宝山寺、待乳山(まつちやま)聖天・本龍院、妻沼(めぬま)聖天・歓喜院が日本三大聖天として有名であるのである。

まあ、あたしは東京地方のお住まいであるので、神のお告げ啓示神示お光を賜りあまねくこの世に降り注ぐ御筆先である象源教教祖としてのお役目柄、待乳山聖天には何度も足を運び、大根をお供えして日頃の守護鎮守のお礼をこれでもかと奉唱なされておられるのである。

歓喜天の真言つまりマントラは、サンスクリットのアルファベット表記では、

Om hrih gah hum svaha 「ओम्(ॐ ) ह्रीः (十一面観世音菩薩の種字) गः(歓喜天の種字) हुं (軍荼利明王の種字) ह्री」

であるのである。

まあ、種字の発音の是非は置いといて、アルファベットをローマ字読みすると、「オーム ヒリフ ギャフ フーム スヴァーハ」てなことであるのである。

まあ、元はもちろん古代サンスクリットの発音であったものがヨーロッパに伝わりアルファベットになり、中国に伝われば漢字になり、さらに中国から日本に伝わりカタカナになるころには、「オン キリク ギャク ウン ソワカ」あるいは「オン キリ ギャク ウン ソワカ」とお馴染みの歓喜天の真言になるのである。

どう考えても、元のマントラとは似ても似つかない別物であることはご理解いただけると思うのである。

まあ、だからね、てきとーでいいわけである。

ちなにみ大呪は、

「ナム ビナヤカシャ カシテイモカシャ タダヤタ オン ナヤカナヤカ ビナヤカ ビナヤカ タラヤカ フリタラヤカ カムカシッテイ カムカ カチッタ ソワカ」

であるのである。

これももちろんサンスクリットを漢字にしてさらにカタカナ変換であるので、元の発音とは別物であるのである。

まあ、仏教の開祖であるお釈迦様は「呪文てなもんはろくなもんじゃありませんから、そんなものをアホみたいにがなりたてちゃいけませんよ」てなことをおっしゃてたわけである。

しかし、まあ、どーせ元のものとは似ても似つかないものであるのであるからそんな固いことは置いといて、お好きな方はこの歓喜天の大呪を心ゆくまでアホみたいにがなりたてると、七代の運を一代にして使い切るてな、子孫に大迷惑なご利益をあなたが独り占めにできるかもしれないつーことを歓喜天秘法では言い張っておられるのであるのである。

でも、七代に渡る子孫の運を使い切ってしまうつーよーな自分さえ良ければいいてな無法乱暴であるので、子孫に迷惑をかけるのが嫌な人はお控えになった方がいいかもしれないのである。

てなことであるが、ご存知の通り、日本では荒々しく厳格な祟り神としての一面も持ち合わせているので、修行のできていない我々ぱーの衆生がいいかげんな気持ちで大呪を唱えたりすると逆に災いを呼び込んでしまうので、唱えるからには、身を清め、浴油供、華水供、酒供、菓子供等の供養法を妥協なく行い、命がけの決心の上に修法しなければならないつーよーなことであるので、実にめんどくさいっちゃめんどくさい神様であるのである。

まあ、タイではべつに命がけてな様子もなくて、皆さんが近くの露店屋台で売ってる献花や供物を供えて、願い事を拝み倒しておられるのである。

あたしはもちろん、待乳山聖天さんに参拝する時同様に、「あー、ありがたいありがたい、あんたはえらい!、いよっガネーシャ!世界一!、牙が一本折れてるところがイキだねー」と褒め倒したわけである。

まあ、なんでも褒めときゃ、誰でも嫌な気はしないのである。

ここがね、人生世渡り身過ぎ世過ぎの極意っちゃ極意であるのである。

悪意を示せば悪意が返り、好意を示せば好意が返ってくるのである。

悪意が返ればあなたの人生は暗転し、好意が返ればあなたの人生は好転するのである。

当たり前であるのである。

自分の周囲が悪意だらけで運気も最低でにっちもさっちも行かないなんて人は、ひとまず周囲をよいしょしてみることをお奨めするのである。

大嫌いな人間もよいしょしてみるのである。

これ、べつに口先だけであるので、金も時間も体力もかからないのである。

あたしみたいに相手の発する波動でその精神状態が事細かにわかるなんて人間はめったにいないので、たいていはその波動よりも、口先の方が気持ちいいので、気持ちいい相手には気持ちいい対応をするようになるのである。

神様仏様によいしょすることにより、脳の神経細胞ニューロンシナプス受容体の組成をその方向に向けるのである。

口先三寸で人生が逆転好転前転バク転宙返りするのであるから、やらない手はないのである。

つーことで、この世の隅々まで愛のむきむきめきめきもきもきあーきもいを降り注ぐことを使命とする偉大なる大霊能者象源教教祖象師匠の師匠筋にあたるガネちゃんの神気霊気波動をこの動画からいかんなく受けて、あなたの明日がうららかに腫れた青空天空の白い雲となるのかどうかは、あなたの日頃の心がけ次第であるのは言うまでもないことであるのである。

スピリチュアル   精神世界

2013年2月14日木曜日

Erawan Srine・Bangkok Thailand エラワン・プーム(祠)



エラワン・プームはバンコクのグランドハイアット・エラワン・ホテル前にあるヒンドゥー教のブラフマー(梵天)を祀る祠(ほこら)であるのである。

祠とは神を祀る小規模な殿舎(でんしゃ)のことである。

三神一体論(トリムールティ)では、ブラフマーは三最高神の一人で、天地宇宙の創造と次の破壊の後の再創造を担当している神であるのである。

まあ、エラワンのタイ的な発音ではエーラーワンてなことをおっしゃる向きもあるのであるが、タイ国政府観光庁でもエラワンと表記なされてるのでエラワンつーことだね。

「エーラーワン」と名前にはあるがエーラーワンの語源であるアイラーヴァタは祀られていないのであるのである。

アイラーヴァタは、 ヒンドゥー教に伝わる聖獣で、インドラの乗り物とされ、自由に空を飛び、インドラと共に天を行き、雲を生み雨を降らせるという、翼をもち、牙が左右2本ずつで、合計4本もつ白い巨象であるのである。

中国人・華人・華僑の皆さんによって四面仏と呼ばれるが、仏ではなく神であるのである。

また、日本ではエラワン・プームとも呼ばれているが、翻訳すると「土地のアイラーヴァタ」という意味不明な単語であり、またタイ語でもこのように呼ばれないそうである。

まあ、日本的に考えれば土地神つまり産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)あるいは地主神(じぬしのかみ、ぢぬしのかみ)てなことで、その土地の守護を司る神てな意味合いであると思うのであるが、この祠を作った人に聞いたわけではないので定かではないのである。

しかし、これもタイ国政府観光庁のホームページではそのまま「エラワン・プーム」と表記なされているので、日本語ではエラワン・プームでよろしいわけであるが、ややこしいのでお好きに呼んでいただきたいわけである。

どうホームページのタイ語表記のศาลท่านท้าวมหาพรหม โรงแรมเอราวัณを日本語に訳すと「裁判所梵天エラワン」となるのであるが、これをタイ人である知人にお伺いすると、「裁判所のバラモン(Brahman)」と言っていたのであるが、ブラフマン(Brahman)とバラモン(Brahman)は同表記であり、ブラフマンは宇宙の起源を司る神であるので、宇宙の想像の神であるブラフマーの起源であるのでかどうなのか、もうこうなると何が何だかわからないので、まあ、お好きな方はとことんマニアックにお調べいただいてお楽しみいただきたい。

それはともかく、たしかに、タイにお住まいの日本人である知人も、通常はエラワンあるいはエラワンの祠あるいはErawan Shrineてなことを言っていて、エラワン・プームとは言わないのである。

だから、まあ、エラワン・プームは確かに日本語であるわけである。

この、エラワンの祠の創建ついては、1953年にエラワンホテルの建設工事が始まったのであるが、当時事故が多発して工事がなかなか進みまなかったことから、占星術師にヒンドゥー教神のブラフマー(宇宙の創造を司る)を祀る祠を設けるよう勧められ、この祠が建立され、以降は工事が順調に進んだてなことである。

しかし、実際は、エラワンの祠が建立された時にはすでにほとんどの建設が終わっており、建立の理由もすでに設置された礎石が占星学的によくなかったためといわれてな話もあるのである。

まあ、それで、このエラワンの祠は「願い事がかなう神様」として、人々に口コミで知れ渡り、病気平癒や家内安全から金運、人気運などの願いをなんでもかんでもかなえるべく、今も絶えまなく多くの人たちがお参りに来るようになりったのであるそうである。

この後、多くの場所でブラフマー神が土地神として悪霊を鎮めるという信仰が広まり、あちこちに多くのブラフマーの祠が建設されたつーことである。

サイアム・ラチャダムリ周辺でも商業ビルの前などにあちこちそちこちにやたらとあるのである。

あたしがおじゃました、知人がお住まいのバンコク郊外のパンカビ(Bangkapi )地区のマンションの前の住宅街にも同じような祠があったりして、まあ、言ってみれば東京都内に江戸時代に流行してあちこちに建立された稲荷さんみたいなもんであるわけである。

また、このエラワンの祠のブラフマー像自体も多くの信仰を集め、特にビジネスマン、中国人などによる巡礼が盛んになったつーことであるが、たしかにこの日もタイの皆さんに混じって、中国の皆さんが観光客も含めて大勢で参拝なされておられたのである。

それで、巡礼者による寄付金があまりにも大量に集まることから、1969年、ホテル経営者側は寄付金を管理する基金を設置し、寄進された寄付金は、病院の医療設備の購入などの慈善活動に使うこととし、またこの基金は祠の管理も行っているつーことであるのである。

また、ここで願い事が叶った人が、神様に踊りや音楽を奉納する習慣があるつーので、敷地内に舞踊団が待機をしておられて、タイ音楽と艶やかなおねーさん達によるタイ舞踊をご披露していただけるのである。

まあ、動画を見ていただければお分かりの通り、タイ人中国人欧米人といーろいろご参拝に来られて、毎日、朝から夜まで大賑わいであるのである。

まあ、こーなるともちろんこのエラワン・プームのブラフマー神を醸成する人々の想念により光り輝くほどに集積する神気霊気の波動はいやがうえにも高まり、さらにそこに妙なるタイ音楽の演奏とタイ舞踊のおねーさんがたのあら嬉しのお姿も艶やかに、参拝客に運気は当然、雲の彼方あの空の向こうまで立ち上って、遠くからでもこの区画から絢爛豪華に振動波動をの鈴生り枝ぶりを垣間見ることができるほどであるのである。

まあ、あたしゃ、例によって、神様にお願いなんかするとろくなことはないというコンセプトの教義ご神託を広める神選神の光後光の擦り切れ象源教教祖としての御役目柄、ありがたいありがたいとのお題目祝詞を奏上して、わはははと破顔大笑爆笑のうちに参拝礼拝五体投地を7回拝してつつがなく終えた次第であるのである。

まあ、タイに行く機会のない人も、この動画から天地宇宙創造神であるブラフマーの神気霊気の波動を受けて、その共鳴により自らの波動の周波数を下げて運気上昇の機縁呼び水原動力としていただきたい。

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