2015年12月21日月曜日

河口浅間神社とパワーストーン美麗石(ひいらいし)



河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町にある神社である。

河口浅間神社は通称で、正式名称は浅間神社である。

主祭神は浅間大神(木花咲耶姫命)である。

この河口浅間神社も全国に数ある浅間神社の一社であるが、浅間神社(せんげんじんじゃ・あさまじんじゃ)は、富士山を神格化する富士信仰により浅間大神(浅間神)を日本神話に登場する木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と同一視して、これを祀る神社である。

木花咲耶姫命は日本一の金運神社の主祭神でもある大山祇神(オオヤマツミ)の娘で、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の妻であり、海幸彦・山幸彦の母である。


河口浅間神社は河口湖から北に御坂道を少し上がったところにあり、動画でもご覧のとおり、参道は杉の大木に囲まれて森閑とした実にさわやかな神氣溢れる空間である。


境内には「七本杉」と呼ばれるスギの神木が立ち、これらはいずれも樹齢1200年を数えるということで、山梨県指定天然記念物に指定されているのである。

氣の語源は木であるという説もあるぐらいで、氣感のある人はご存知のとおり、樹木は豊かな氣を発するわけである。

まあ、その波動により、自らの波動も影響を受けて高まるわけであるが、樹木に抱きついたりしてると笑われるということを、ひとことご注意申し上げておくのである。



本殿拝殿の前には、パワーストーンの美麗石(ひいらいし・ひひらいし)があるのである。

この石は、浅間明神を初めて祀った古代祭祀の石閣と伝えられている石の祠(ほこら)である。

祠であるから、神を祀る社であるわけである。

悠久の時代を経て、この祠に宿る思いは集積し、幾多の神霊が集い、八百万の神となるわけである。

この動画でこの神社の境内にいざなわれ、ひいら石の発する氣を受ければ、必ずやあなたの波動も振動を高め、全身の細胞は活き活きと蘇るのである。

ありがたいありがたい。

守り給え幸えたまえ。


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2015年12月14日月曜日

新屋山神社(富士山金運神社)



新屋山神社(あらややまじんじゃ)の本宮参拝である。

この日は12月に入っていたので、奥宮への参道が来年の4月まで閉鎖ということで、残念ながら、奥宮参拝は来年のお楽しみとなってしまったのである。

新屋山神社は山梨県富士吉田市新屋神社河原1230にある神社で、知る人ぞ知る日本一の金運神社である。


金の亡者の象師匠としては何がなんでも一度は参拝しないと股間に、いや失礼、沽券にかかわるのである。

誰が金の亡者だ。

ううむ、くだらん、やめりゃよかった。


主祭神は大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)である。

創建は後奈良天皇ご在位の天文3年(1534年)10月17日である。

ネットなんかでも頻繁に取り上げられる大人気の神社であるが、この日も平日にもかかわらず、それなりにこの辺鄙な立地に、金の亡者の皆さんが、いや失礼、敬虔な参拝者の皆さんが引きも切らず来られるのである。

この神社を有名にしたのは、経営コンサルタントの故船井センセーが、「金に困ったら、この神社に行け」とご推奨なさったのが一因であるつーことである。

まあ、それで、拝殿の入り口のガラス戸を開けたら、お若い神主さんが出て来られて、祝詞を上げてお祓いしてくれたのである。

ホームページによるとそのあと無料で玉串をいただいて祭壇に奉納するということが書いてあったのであるが、それはなかったのである。

昨今、有名になり過ぎて、あまりにも参拝者が多いのでその辺は省略になったのか、あたしのお賽銭がいつもの100円均一で少なかったのか、そのへんは聞くわけにもいかないので定かではないのである。

まあ、地獄の沙汰も金次第であるから、神域に至ってはさらに金次第であるのは自明の理であるし、ものが天下に名だたる金運神社であるので、お賽銭の額でことが左右されるのは当然であるのは当たり前である。

なにはともあれ、象気功信者におかれましては、この動画で心行くまで参拝して、金運神社の御利益の一端を授かればこれ幸いである。

鳥居をくぐって境内神域に入ると、とにかくめでたい神氣であるので、どんな邪気も祓われて、それなりに金運が上昇するのは船井センセーのおっしゃるとおりであるが、船井センセーは81歳でお亡くなりになられ、あたしの目標の120歳とは程遠いので、不老長寿のご利益は今一つかもしれないのである。

ひとこともふたことも多いのである。

ありがたいありがたい、なむなむ。

ちがうちがう。

祓い給え清め給え守り給え幸え給え。

なむなむ。

だから、ちがうったら。


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2015年11月20日金曜日

大國魂神社の酉の市



東京都府中市に鎮座する大國魂神社の祭礼の酉の市である。

この酉の市は、浅草の鷲神社、新宿に花園神社と並んで関東三大酉の市のひとつである。

この日の11月17日火曜日は二の酉である。

つまりこの神社の酉の市の二回目つーことであるが、見物客や熊手を買いに来たご商売や企業の皆さんで大賑わいである。


まあ、神事であるので、「買いに来た」と言う言い回しが適切かどーかはともかくとして、数軒ならんだ熊手屋さんの前では手拍子も鮮やかに華やかなことこの上ないのである。

それで、熊手を見てみると、売約済みの札にはあたしの関係の会社の名前も見えたりして、科学万能この時代でも、商売や仕事には神頼みが必要であるらしいということがわかるのである。



それで、まあ、本来は酉の市は本殿の脇にあるこの大鷲神社の祭礼であるので、その社(やしろ)にも灯りが入って、なかなか趣があるのである。

あたしも皆さんに混じって、ありがたいありがたいとお礼を申し上げたのである。

いつも言うことであるが、神様に願い事は禁忌である。

神様は願い事をされるのが大嫌いであるので、無視されるか神罰を以ってそれに答えられるのである。

神様にはひたすらお礼を申し上げるのが正しい作法である。


それで、ぐるぐる周って腹減ったので、テーブル席のある屋台で呼び込みしてるおねーさんに誘われて、席に座って、焼き鳥ともつ煮を頼んだら各600円で合計で1200円である。

唐辛子の瓶と比べるとわかるが、もつ煮の器がすんごく小さいので、これが出てきたときはあーらびっくりねと爆笑してしまったのである。

しかしこれが、食ってみると量はそれなりであるので、もう少し大きな器にすればあーらびっくりねをされなくてすむのではないかというご提案を申し上げておくのである。

もちろん大きなお世話である。



本殿入り口の中雀門の脇にある神楽殿では、国指定重要無形民族文化財である江戸の里神楽(山本頼信社中)の上演されているのである。

この動画で演じられているのは、式三番のうちのいわゆる三番叟の一部である。

始まってまもなく、雨がぱらつき始めたので、いたしかたなくロケは中止して走って車に戻ったら、雨は上がったのである。


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2015年11月11日水曜日

日光二荒山神社



栃木県日光市に鎮座する日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)である。

勘違いしておられる人も多いと思うが、「ふたあらさん」ではなく「ふたらさん」であるのである。

正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と呼ばれ、古くは「日光三社権現」と称されたつーことであるが、まあ、細かい事情はともかく、立派で豪壮な神社であるのである。

どなたもご存じではあると思うが、「日光の社寺」の1つとしてユネスコの世界遺産に登録されているのである。


主祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこね)の三柱で、それぞれ日光三山の一山にあてられ、三神は総称して「二荒山大神」と称されるのである。

まあ、つまりは東照神君家康公の御霊を守るためにいろいろな神様を招請したもと考えられるわけであるが、いろいろな神様を家来として周囲に配したとも言えるわけである。

これらの神々は仏教隆盛時の神仏習合思想による本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)からこじつけて、順に、千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の仏があてられ、父、母、子という関係までセットアップして、現在でも輪王寺(位置)ではこれらの仏を祀っているのである。

つまりは、前述の象気功的解釈によれば、神様と仏様を家来として配したとも言えるわけであるが、まあ、もともと日本には八百万の神々がおられるので、仏教から多少の仏さんがご参加なされてもたいしたことでもないということであるかもしれないのである。


10月終わりの参拝当日は本殿前には茅の輪が設えられ、この茅の輪を3回くぐると良縁に出会うというので、あたしもとにかく3回ぐるぐるとくぐったのであるが、未だに、これと言って良縁には出会えないのである。

まあ、軽やかに決まった自虐ネタはともかくとして、象気功の真骨頂は「氣の身体に変える」ということである。

その入り口のひとつが神社仏閣の霊氣神氣を受け、それを体内感覚として実感することである。

霊氣神氣は受けようと思わなければ一生受けることができないのである。

その感覚をつかむことが、脳が物質の波動をつかむことにつながるわけである。

良い波動をつかめば、波動あるいは振動としての存在である人体はその影響を受け、その波動が良い方向に修正されるのである。

運気あるいは健康状態の良し悪しは、波動の良し悪しであるとも言えるのである。

その良い波動を高めるために神域あるいは霊場巡りを慣行するわけであるが、慣行ではなく観光になってしまっている節もある昨今であるのである。


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2015年11月10日火曜日

日光山輪王寺大猷院



日光山輪王寺大猷院は徳川三代将軍家光公の廟所(墓所)である。

日光山輪王寺は天台宗門跡寺院である。

本尊は阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音で、創建は天平神護2年(766年)である。

大猷院の境内には世界遺産に登録された22件の国宝、重要文化財、さらには315基の灯籠などの見どころ満載である。

また、「家康公(東照宮)」を凌いではならないという家光公の遺言により、建物の装飾は金と黒を使用し、東照宮に比較して、あたしにもわかるぐらい重厚で落ち着いた造りになっているのである。


それで、いざ上の写真の仁王門から石段を登り始めて、修復中で天幕のかかった残念な二天門、夜叉門と、次々とくぐると、これがなかなか舐めては行けない段数であるのである。

さすがの霊能界の体力王を自負する象師匠も、霊のタタリよりも前日にご宿泊なされた鬼怒川温泉の某ホテルの夕食バイキング飲み放題の酒のタタリで、途中から息が切れて、さらには、スマホのストラップの音がカチカチ入って、わけのわからないロケとなったまま堂内に突入したのである。

絢爛豪華な堂内はもちろん撮影禁止であるので、動画は主に石段登りのロケとなったのであるが、まあ、二日酔いで霊氣神氣のご利益があるのかどーかはなんともかんとも言いようもないのである。

まあ、それもこれも仏のお授けであるので、ありがたくおすがりしてなむなむしていただければ、あなたのアストラル体は瞬時にこの大猷院霊場にいざなわれ、清冽な波動を受けていやがうえにも高まることは必定である。



さて、その日光山輪王寺参拝のもうひとつのハイライトは、日光山随一で、東日本では最も大きな木造の建造物である総本堂の三仏堂である。

しかし、あいにく50年ぶりてな「本堂平成大修理」の最中で、やむなく伽藍を覆う素屋根の外側の天幕に書かれたお姿をなむなむすることになったのである。

しかし、拝観料を払って、撮影禁止の素屋根の内部に入れば、本尊を始めとして、宝物の数々をじっくり間近で拝むことができ、さらには「天空回廊」と名付けられた展望見学通路の階段を登れば、大修理の様子をご見学できるということである。

もちろん、「周囲の状況に合わせてテキトーに生きる」という釈迦の教えを実践する敬虔な仏教のあたしは、チケット売り場で大枚400円を軽やかにお支払いして、本尊である日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)の高さ7.5メートルの三体の大仏さまの皆さんをくまなくなむなむして、大工さんたちの活躍の様子もご見学あそばされたのである。


上の写真の右側が日光山輪王寺本堂三仏堂で、奥が日光東照宮である。

まさに霊氣神氣の交差点であるのである。

彦麻呂かよ

ありがたいありがたい。

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2015年11月7日土曜日

日光東照宮



まあ、説明するまでもないとは思うが、日光東照宮は栃木県日光市に鎮座する、まあ、言ってみれば日本で最も有名で人気のある神社である。

主祭神はもちろん徳川家康公であり、相殿には豊臣秀吉公・源頼朝卿が祀られているのである。

創建は江戸時代に入ってからとはいえ、元和3年(1617年)であるから、なんだかんだでかれこれ400年前であるのである。

もちろん、世界文化遺産であり、国の史跡に指定されいるのである。

境内のそこかしこは、国宝・重要文化財の博覧会である。

うまいねどうも。


日光東照宮については今更あたしが説明することもないぐらい、どなたもご存知であるが、関東地方では小学校の修学旅行が定番であるので、修学旅行時期真っ盛りのこの日も小学校が押すな押すなでバスを連ねてご到着である。

まあ、学校間ではそれなりにスケジュール調整はしているとは思うが、それでも、とんでもない騒ぎである。

その小学生に混じってあたしも押すな押すなで日光東照宮のメイン観光スポットである陽明門にご到着遊ばしたら、ちょうど工事中で天幕がかかっていて、ご見学できないのである。


実はあたしは幼少のみぎりに重度の喘息の持病があったために、それを心配した担任教諭のご意見で日光修学旅行はご辞退申し上げざるを得なかったのである。

その後、神のお告げで重度の喘息が完治してしまったので、数十年遅れて今回の念願のの日光東照宮修学旅行となったわけである。

そんな事情もあって、小学生と混じって引率の先生の「ここから270段の石段がありますから!登れる人は行きまーす!」てな雄叫びを聞きながら二百数十段の石段を軽やかに登ると、感激で涙も溢れてくるのであるが、元気な小学生の大騒ぎといっしょに、何がなんだかわからないまま奥宮拝殿から奥宮宝塔にご到着あそばされたのである。


日光東照宮のご紹介を兼ねて、参拝の模様をノーカットで放送しようと思ったのであるが、建物内部は撮影禁止であるし、いかんせん尺が長過ぎるので、あちこちカットして、それでもこの大作となったのである。



それで、無事、御宝塔でなむなむして参拝を終えて、境内の神厩舎の見ざる聞かざる言わざるの「三猿」を拝み倒していたらば、突然、神厩舎の裏側から神馬(しんめ)である白馬が現れたのである。

どうも、お馬さんのご飯の時間であるらしいのであるが、やはり神の使徒象師匠ならではの神の采配による巡り合わせであるということで無理やりこじつけておくのである。



日光東照宮御仮殿である。

御仮殿は、東照宮の本社の修理中、一時的に御神体を安置しておく仮の御殿ということであるつーことであるが、このように常設されているのは東照宮だけであるつーことである。

現在の社殿は寛永16年(1639年)の建立であるつーことである。


入り口に「特別公開中」と書いてあるので「ううむ、なんと特別に公開中では見に行かねば今後の人生に悔いが残るではないか」と見に行ったらば、拝殿の門が閉まってたのである。

いずれにしても、御神霊の波動は宿り、それを受けてあたしの波動を高まり、さらに霊能者としての能力は高まるわけである。

なんでも良い方に考えれば波動は良い方に高まるのである。

ありがたいありがたい。

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2015年11月3日火曜日

榛名神社



群馬県高崎市榛名山町の榛名山にある榛名神社(はるなじんじゃ)である。

赤城山・妙義山と共に上毛三山の一つとされる榛名山の神を祀る神社である。

主祭神は火の神・火産霊神(ほむすびのかみ・カグツチ)と土の神・埴山姫神(はにやまひめのかみ・ハニツチ)で、水分神・高靇神・闇靇神・大山祇神・大物主神・木花開耶姫神を合せ祀るのである。


これが行ってみると平日であるにもかかわらずの大混雑で、無料駐車場という名の帰りにおみやげを買わなければならないおみやげ屋の駐車場も満員状態で、そこから歩き始めたら、これが、行けども行けどもハイキング状態が続いで、動画の途中でも「心臓が痛くなる」と嘆いておられるおばさまもおられるぐらいの長い登坂路で、あまりにも動画が長くなり過ぎたのであちこちカットして、主に神社ご利益の石段登りを中心の編集となったのである。


歩き始めて二の鳥居を過ぎると、随神門(国指定重要文化財)にご到着あそばされるのである。

榛名神社は本殿も含めて国指定重要文化財のオンパレードであるので、じっくりと拝見して、悠久の歴史に身を委ねて、細胞を心ゆくまで緩めることがあなたの氣を高める法となるのである。

ううむ、榛名神社の神氣を受けて筆の運びもなかなか快調である。


神社参拝の楽しみはなんと言っても石段登りであるので、これが長くて急であるほど楽しみは倍加して、「ああ、今日も元気だ、氣が湧く氣が湧く」と実感できるゴールデンタイムであるわけである。

まあ、石段を登ることは、効率的な足腰の筋力強化と心肺機能の強化をもたらし、さらには、効率的に細胞を活性化させる氣が湧くのである。

まあ、そのために神社を山の上に造ったわけではなかろうから、結果論ではあるが、仏教の千日回峰や修験道のカリキュラムなどを鑑みても、実に神氣を得ることに正しい法であることがわかるのである。

ちなみに、上の写真石段の上は双龍門(国指定重要文化財)である。


榛名神社の創建は用明天皇元年(586年)であるから、古くから信仰を集める由緒のある神社であるわけであるが、現在でも周囲の奇岩と、上の写真の本殿に落ちてきそうな御婆岩と言う名の大岩がテレビ番組などでも取り上げられて大人気である。


本殿に向かって左脇には、慶長年間(1600年頃)に建てられた国祖社(こくそしゃ)と、文化11年(1814)にその隣に増築する形で建てられた額殿(がくでん)があるのである。

榛名神社太々神楽講の人々が参拝に訪れた際、神代神楽が奏上されるときに神楽を見るために座敷が設えられる場所である。

太々神楽講は他に天河神社太々神楽講が有名である。

その太々神楽の奉納額が内外に掲げられていることから額殿と呼ばれているのである。


さらにその額の皆さんをアップでご覧頂くのである。

だからなんだと言われても、額殿であるので、額をご覧になって「おお!、これが多々神楽の額の数々か!」と感動にむせんで嘘泣きしてもらえれば、あたしも大いに満足であるのである。

ううむ、飽きてきて文章がいい加減になってきたのである。

まじめに読んでる信者の皆様には大変もーしわけないことであるので、ここはひとつ気持ちもあそこも引き締めて筆先を翻すのである。

翻らないかもしれないが、まあ、その、なんである、あれだよ、まあ、いいじゃないの。

しまいに怒られるのである。


同じ境内にある神楽殿と、その背後の奇岩である。

まあ、古代の人はこのような奇岩を造られた八百万の神の大いなる力を畏敬して、ここに神を祀ったわけであると思うが、それもこれも含めてあたしのような神に選ばれし真性霊能者には、ただただこの膨大な神気霊気に身を包まれて細胞の奥底の何かが喜ぶのを味わうわけである。

お前はびょーきか。



本殿下にある暦抒楓(れきじょふう)と瓶子(みすず)の瀧である。

暦抒楓(れきじょふう)というのは、動画の瀧の前にみごとに紅葉している樹齢数百年を経た楓である。

それもこれも含めて、この動画参拝によりあなたのアストラル体を榛名神社拝殿前にいざない、その強烈な霊気神気を受けて、全身60兆の細胞の修復・活性化の糧としていただきたい。

祓い給へ清め給へ守り給へ幸え給へ。

ありがたいありがたい。

てなことでひとつ。



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2015年10月31日土曜日

鬼怒川温泉神社



鬼怒川温泉神社は栃木県日光市の鬼怒川温泉にある神社である。

動画冒頭の大鳥居は藤原町護国神社の鳥居で、護国神社拝殿に向かって右奥にある流造銅板葺きとおっしゃる赤い妙な建物が、この鬼怒川温泉神社本殿である。

創建は不明であるが、温泉の霊力を神格化し崇拝され建立されたことから、祭神は医療・禁厭の神である大己貴命(おおなむちのみこと)と小名彦命(すくなひこのみこと)である。

もちろん温泉湯治による健康効果の基本は血行促進による自然治癒力向上であるが、まあ、医学もなにもあったもんでは無い時代には、それもこれも八百万の神のどなたかのなせる業であると考えたわけである。


現代では象気功の会陰メソッドが自然治癒力回復の神業となっているわけであるが、なにしろ、象師匠の言動がことごとく不行き届きであるので、今後も象師匠が神と崇められることはないのである。

まあ、とにもかくにも鬼怒川温泉でじっくりとあったまって、それなりに健康効果を実感した人は、この温泉神社に参拝してありがたいありがたいとお礼を言うことが正しい作法である。

参拝に際して工事音のBGM入りであるが、それもこれもカンナガラであると考えると、ありがたいありがたいと拝聴できるのである。

ときどき画面がゆがむのはスマホのカンナガラである。

ううむ、やっぱり、やかましいのである。


鬼怒川温泉神社境内のすぐ下には鬼怒川温泉ロープウエイの乗り場があって、おさるの楽園に行けるのであるが、特別におさるを見たいということもなかったのと時間がケツカッチンであったことも含めて、スルーしたので、レポはないのである。

いらんだろ。

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2015年10月7日水曜日

諏訪神社(軽井沢町)



諏訪神社(軽井沢町)は長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢字諏訪森865番地に鎮座する神社である。

現在の社殿は元禄期の再建であるつーことであるが、詳細な創建年代は不明であるのである。

ご神木の樹齢が推定500年ということであるから、まあ、いずれにしても、大変由緒のある神社であるわけである。

諏訪神社は全国に約25,000社あると言われ、諏訪湖近くの諏訪大社を総本社とし、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰というのである。

諏訪大社の祭神は諏訪大明神とも言われる建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、他の諏訪神社もこの二神を主祭神とし、この二柱を「諏訪大神」と総称することもある。

諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌(なぎがま・なぎかま)に御神霊が移され、各神社ではこれを御神体としているのであるが、もちろん大霊能者象師匠といえども御神体を直接拝することはできないので、賽銭箱の前からなむなむしたのである。

ちなみに、薙鎌は長柄に鎌状の刃を付けた武器である。

諏訪大神は古来より軍神として崇敬されたのであるが、また中世においては狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られるのである。

なるほどねつーことである。


とにもかくにも、この神社は趣きのある大変小さな神社であるが、旧軽井沢銀座からすぐ近くにあるという抜群の立地条件の物件でのため、物見遊山のついでのカップルなんかが訪れるので、参拝客はそれなりにあるのである。

このすぐ近くの駐車場にキリスト教の教会もあるので、和洋を問わず神ならなんでもお参りする象師匠としては、もちろんそちらもなむなむしたのであるが、カメラを回すのをお忘れになったので、オンエアはこちらの和式の神様となったのである。

まあ、常々、あたしは神のお告げと言う名の口から出まかせで「神社で頼みごとをしてはいけない。ひたすら神様にお礼をするのが正しい作法である」と言いふらしていたのであるが、先日、これが実際に正しい作法であるということが判明したので、「あーら、びっくりね」と、今更ながら神のお告げというものはすごいもんであるなあと、感動感激して感涙にむせんで嘘泣きしてしまったのである。

はらいたまえ きよめたまえ まもりたまえ さきわえたまえ。

なむなむ。

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2015年10月6日火曜日

懐古神社


懐古神社は長野県小諸市の小諸駅のすぐ近くにある小諸城址懐古園の旧城の本丸跡にある神社である。

懐古神社は神社本庁に所属し、宗教法人懐古神社が運営する神社で、氏子数は約50名であるが、宗教法人懐古神社は小諸公園(懐古園)の地主であるつーことであるが、これ以上食いつくといろいろと差し障りがえらい出てくるので、この辺でうやむやにするのである。

祭神は小諸藩主牧野氏歴代の霊、菅原道真(天神)、火之迦具土命である。



懐古神社の鳥居までたどり着くには、まず、懐古園入り口の三の門から入って三の門料金所で散策券300円の入園料を払ってから、てくてくと城址内を歩いて行かなければならないのである。

この日は某議員さんの団体の視察があったせいなのかどーかは定かではないが、清掃その他の係の皆さんが大勢おられたのである。

てなことで、ロケ中にも関わらず途中で気さくな園内清掃のおじさんにご挨拶をされたりして、なかなか波乱万丈の成り行きであるが、まあ、それもこれも八百万の神々のお授けであるので、ありがたいありがたいとお受けして、拝殿の前に言ったら、植木屋さんがトラックのエンジンをかけっぱなしでお仕事中であるので、ディーゼルエンジン音がBGMという香ばしい参拝となったのである。

なんにしても、ありがたいありがたいと二礼二拍手一礼して拝んどけ拝んどけである。


それで、JR小海線の線路を挟んで向かい側にはあーらびっくりねつーぐらい立派に整備されている「停車場ガーデン」てな立派な公園になっていて、その公園に小諸城の大手門があるのである。

つまり、この一帯が小諸城の城郭であったわけであるが、鉄道が分断してしまったわけである。

大手門は三の門とともに国指定重要文化財である。


大手門を内側から見るとこんなである。


ついでに、城址内にある稲荷神社である。

神様に対してついでとは大変不遜失礼な言い様に聞こえるが、たいていの一般衆生の神社参拝自体が物見遊山観光のついでであるし、いずれにしても、素通りするよりは神と縁があるわけであるので、神様もお喜びであるのは確信するところである。

なむなむ。

だから、なむなむじゃないったら。

はらえたまえ きよめたまえ もまりたまえ さきわえたまえ。

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2015年10月5日月曜日

布引観音(釈尊寺)



布引観音(ぬのびきかんのん)として有名な釈尊寺(しゃくそんじ)は、長野県小諸市にある天台宗の寺院で山号は布引山である。

創建は伝承によると神亀元年(724年)であるから、1200年以上以前であるわけである。

本堂は旧国宝で現在は国指定重要文化財である。

「牛に引かれて善光寺参り」伝説発祥の地としても知られており、本尊は聖観世音菩薩である。

ちなみに「牛に引かれて善光寺参り」というのは、昔、長野の善光寺近くに住んでいた不信心で欲深い老婆が、軒下に干していた布を隣家の牛が角に引っかけて走り出したのを見て、その牛を追って文句百曼荼羅をほざきながら歩いて行くうちに善光寺にたどり着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するようになり、信仰の道に入ったと言う故事言い伝えである。

老婆はあれこれあって、家に帰って近くの観音様にお参りすると、牛に持って行かれたはずの布が観音様に足元にあるではありませんかてなことで、その観音様が布引観音であるつーことであるが、この地は善光寺から50km以上離れているのである。

ぜんぜん近くではないではないかとつーよーなツッコミを入れてると尺が足りなくなるので、スルーするのであるが、とにもかくにも、実際に行ってみると、とんでもない山奥を延々登らされるのである。

動画は、延々15分ぐらい険しい山道を登った果ての最後の方であるのでその険しさはわからんと思うが、布引観音のおわす本堂はいわゆる投入堂(なげいれどう)に近い建築様式の建物で、山の中腹の岩盤に無理やり建てたお堂であるのである。

この投入堂の建築業者の先駆けが修験道開祖の役小角であると言う説があるが、つまり、修験道の修行は当時の寺院建築の大工さんが、とても建築不可能と思える山の中腹の岩盤に投入堂を造るための建築に関する修行の一環であるということであるわけである。

まあ、その真偽はともかくとして、そのぐらいとんでもない場所にあるのであるが、これが、意外や意外の大人気で、山麓の駐車場には平日であるのにけっこうな数の車が停まっていて、参道の山道からはどんどん老若男女や小さな子供連れのご家族が下りて来るのである。

参道というよりは登山口には、たくさんの原木の杖が置いてあり、老人老婆や足の弱い人はこれを持って登りなさいてなことであるらしいのであるが、もちろんあたしはそんなものを持って登るわけもなくて、颯爽と手ぶらの登坂となったのはゆーまでもないことである。

まあ、神社仏閣の石段登りをこよなく愛するあたしとしては、さらに嬉しい15分の極楽登山街道であるので、心置きなくその極楽を堪能して、「これじゃあ、この寺の住職さんは大変だが、修行といえば修行であるので、ありがたいありがたい」とへろへろになって境内にたどり着いたら、車が停まってたのである。

境内の裏の方から山麓まで車道があるらしく、住職さんは車で行き来してるわけである。

「ううむ、修行が足らん」と言いたいところであるが、大きなお世話であるので言わなかったのは言うまでもないことである。

それで、本堂にお参りしたら、足元に猫がおられたので、これも仏縁とゆーことでなむなむしたのは言うまでもないことである。



かわいいでちゅねー。

ううむ、いかんな。

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2015年10月2日金曜日

妙義神社



妙義神社(みょうぎじんじゃ)は、群馬県富岡市妙義町にある神社である。

榛名山・赤城山とともに上毛三山の一つである妙義山の東麓に鎮座し、妙義山信仰の中心となっている神社である。

主祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権大納言長親卿と盛りだくさんであるので、たいていの願いはお聞き届けいただけると思うととんでもない間違いで、いつも言うことであるが、神様にお願いをするなんて不届きなことをすると、ひどい神罰をお授けいただくことになるのである

本殿拝殿の前に立ったら、二礼二拍手一礼して「ありがたいありがたい」とお礼をすることが、今後のあなたをさらに守護していいただく唯一の作法である。

神様だってお礼を言われて悪い気はしないのである。

見ず知らずの変な奴にあれこれ頼まれたら怒るのは当たり前ある。

そうでなくても神様はめんどくさがりやであるので、頼まれるとむかっ腹を立てて、これでもかと言う神罰を以ってお答えになるのである。

つい先日の某あそこのあたりの方面の欲望丸出しの群衆への2度に渡る容赦のない神罰を見れば、あたしの予言がこよなく成就されていることをご理解いただけるところである。

ううむ、日本語が多少変だが、霊能者の言葉は神のみことのりであるので、あだやおろそかにアレをナニしてはいけないのである。

まあ、とにかく、この妙義神社の石段が、これがまた、下から見上げると気が遠くなるぐらいの段数であるのである。

これだけで修験道の修行はOKなんじゃなかろうかというぐらいの怒涛の石段である。

しかし、こんなもの誰が登るんだという心配をよそに参拝客がちらほらと登ってくるのである。

まあ、石段の急峻と段数を見てギブアップの人のために、いわゆる女坂というのか、なだらかな道もあるので、犬連れの人も登ってくるのである。

もちろん、神社仏閣の石段登りを生涯の生きがいとする健脚自慢のあたしは石段を張り切って登り始めたのであるが、実はゆうべのご酒飲が乱暴すぎたのか、中断から息切れが始まって、足はフラつき、カメラはでたらめなアングルで、息も絶えだえで頂上にご到着となったのである。

神社仏閣にご参拝の折には、間違っても深酒をお召しになると、とんでもないことになるということで、その様子を臨場感をさらに盛り上げる音楽付きでアップしたのである。


総門、唐門、本殿はともに国指定重要文化財で、特に本殿はみごとな彫刻にきらびやかな色彩を施してあり絢爛豪華であるので、四苦八苦で登る楽しみの他に、それをじっくりと鑑賞し、さらには境内からの絶景を拝むという優雅な一日をお過ごしいただけるのである。


ありがたいありがたい。

ああ、しんど。

ありきたりかよ。


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2015年9月7日月曜日

諏訪大社下社春宮



諏訪大社下社春宮(はるみや)である。

春宮は、下諏訪の下流、町の北端、秋宮の北西約1.2kmの地に鎮座し、下社最初の遷座地とされ、境内のすぐ脇には諏訪湖に注ぎ込む砥川(とがわ)が流れているのである。

祭神は、秋宮と同様に建御名方神 (たけみなかたのかみ)と八坂刀売神 (やさかとめのかみ)を主祭神として、八重事代主神 (やえことしろぬしのかみ)を合祀するのである。

祭神は、秋宮との間で春と秋の期間持ち回りで半年ごとに遷座され、毎年8月1日に春宮から御霊代を遷すお船祭りが行われ、秋宮で遷座祭が行われるのである。

秋宮の御神体はイチイの木であるが、春宮の御神体はスギの木(神木)である。

さてさて、それで、大鳥居をくぐって歩き始めると、境内の構成は秋宮と同じで、大しめ縄を下げた神楽殿の後ろに拝殿があるのである。

その拝殿の御簾の前の祭壇には鏡が祀られていて、その後ろは見えないのであるが、その後背部に一般の神社の本殿に当たる東西の宝殿があり、その後ろに御神体のスギの木があるわけである。

やほよろずの神々が鎮座する日ノ本であるから、神社という神社を踏破して、我、日本のカミゴトの申し子とならん、つーよーな心意気を持って拝殿から御神体を拝し、なむなむしたわけである。



えーと、それで、諏訪大社下社春宮の浮島社である。

諏訪大社の横を流れる砥川の中洲にある小さな祠であるが、そこはそれ、出くわす神のやしろはことごとくなむなむしてしまう神参りの権化象師匠としては、他の物見遊山の観光客が見逃すような狭小な神のお住いも見逃さずご訪問申し上げるわけである。

いってみればなむなむの押し売りであるが、神の迷惑かえりみず今日も明日もなむなむの訪問販売のノルマ達成に精進するわけである。

なんのノルマだ。



つーことで、諏訪大社下社春宮の境内から中洲の浮島を挟んで砥川を渡ると万治の石仏てな石仏があるのである。

万治というのはこの石仏を制作した人の名前ではなく、万治3年(1660年)11月1日に造られたとされるところによるのである。

これが予想を覆す実にパンクなできの石仏で、これをご覧になった岡本太郎さんが「芸術はバクハツだ」と激賞したつーぐらいの面白さであるのである。

万治の石仏については首が伸びるだのなんだのとテレビ番組にで話題になり、現在は土産物屋もある大人気のパワースポットであるのである。

まあ、とにかく、この石仏を「よろずおさまりますように」と念じて願い事をしながら時計回りにぐーるぐる三回廻って「よろずおさめました」と唱えると願いがかなうつーことであると石仏の前の立て札に書いてあるので、もちろん、そこはそれ、天下の名だたるお参りマニアの象師匠であるから、すぐにもぐーるぐる時計回りに三回廻って「ありがたいありがたい」と言ったのはゆーまでもないこである。

あれこれものごとを神仏に「お願い」すると罰をくだされるのである。

それが神罰であり仏罰である。

ときどき宗教関係の参詣バスが大事故にあったり道路から谷底に転落してるのが、その神罰仏罰の典型的な例である。

神も仏も、頼まれるのはめんどくさいので大嫌いであるということを心の奥深く認識しなければならないのである。

神仏に向かったらひたすらお礼を言うのである。

神社の拝殿での二礼二拍手一礼もお礼をしつこく繰り返しているということである。

もちろん二拍手は破裂音を嫌う悪霊を祓うということでもあるが、まあ、とにもかくにも「ありがたいありがたい」とお礼をするわけである。

カミゴトで言えば、普段からヤオロズの神々のご利益で、どんな形でも生きながらえているわけであるから、それだけでもありがたいわけである。

その上、欲をかいてあれこれお願いするとろくなことにはならないのである。

ひたすら「ありがたいありがたい」である。

見ず知らずのものにあれこれ頼まれたらめんどくさくて腹が立つが、お礼を言われたら誰でも嬉しいのである。

これが、神参りでも寺参りでも、最上のご利益いただく秘訣である。

ありがたいありがたい。

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2015年9月6日日曜日

諏訪大社下社秋宮



諏訪大社下社の秋宮(あきみや)である。

諏訪大社には上社(本宮・前宮)と下社(秋宮・春宮)があるのであるが、どちらが上ということではないのと同様に、下社の秋宮と春宮はどちらが上ということではないのである。

祭神は神建御名方神 (たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)を主祭神とし、八重事代主神 (やえことしろぬしのかみ)を 合祀しているのである。

神の名はことごとく言霊でもあるので、早口言葉の練習と思ってこの三柱の言霊を息の続く限りわめくと霊験あらたかに輝ける明日が成就されることは必定である。

秋宮(あきみや)は、下諏訪の春宮の町の東端に鎮座する神社で、東方には承知川が流れているのである。

もちろん承知川がどこにあるのか象師匠におかれましたはご承知ではないのであるが、おそらくどこかに流れているのは霊能者の冷感いや霊感により確実であるのである。

秋宮では毎年8月から翌年1月のいわゆる秋の期間に祭神が祀られており、2月から7月までの春の期間は春宮にその役目を託すわけである。

祭神は秋宮と半年ごとに遷座され、毎年8月1日に春宮から御霊代を遷すお船祭りが行われ秋宮で遷座祭が行われるのである。

境内は社殿4棟が国の重要文化財に指定されており、周辺は温泉の湧出地で、境内にも御神湯が存在し、周囲は下諏訪温泉郷を形成しているのである。

つーことで、一体誰が読みたいんだという豆知識はこれぐらいで勘弁してやって、さてさて、下社秋宮と書いてある看板を右に見て、入口の大鳥居をくぐって石段を左右にして中央の石畳を歩き始めるとまもなく「寝入りの杉」という巨大な杉に出くわすのである。

この杉は樹齢600年と言い張っておられるのであるが、丑三つ時になると枝を下げて寝入り、いびきも聞こえると言い張っておられ、さらに皮を煎じて飲ませると夜泣きが止まると言い張っておられる、由緒ある立派な杉である。

その杉を回ってさらに歩くと巨大なしめ縄のある社殿にたどり着くのである。

「おお、さすがは諏訪大社だ、拝殿のしめ縄も特大ではありませんか」なんて感激もひとしお感涙にむせぶことしばしであったのであるが、それは神楽殿で、拝殿はその後背部であるのである。

それで、神楽殿の内部を拝見してから階段を降りて、神楽殿をぐるりと右に回ると、みごとに拝殿があったので、無事参拝の運びとなったのである。

拝殿の後ろに、一般の神社の本殿の代わりに諏訪大社の祭神である、神建御名方神と八坂刀売神を祀る宝殿が二つあり、その後ろに秋宮の御神体であるご神木のイチイの木があるのである。

ちなみに、宝殿は7年毎の御柱祭に片方ずつ建て替えられ、遷座祭がおこなれるのである。

それはともかく、御神体のイチイの木を拝殿から拝するわけであるが、もちろんどこに御神体のイチイの木があるのかわさっぱり見えないので、てきとーにあのへんだろうと見当をつけてむなむしたわけである。

神道の神社でなむなむはなかろうという無知蒙昧の輩の苦情は、仏教伝来以降の神仏習合の歴史を紐解けばすぐ瓦解することであるので、象気功信徒檀徒におかれましては教義にのっとり、こだわらずになむなむしていただきたいもんである。

なんでも拝んでおけば御神体のイチイの木も悪い気はしないのであるし、なむはあなたに帰依しますということであるので、なにごとも褒め上手はこの世を渡る優れたよすがであるということを教義のひとつに加えてご利益といたしたいのである。



諏訪大社下社秋宮境内にある恵比寿社である。

いや、まあ、トイレに行こうと思って歩いてたら、この恵比寿社があったので、ついでといっては恵比寿さんに大変失礼であるが、無視するのはさらに失礼であるということでついでになむなむしたのである。

なむなむ。

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2015年9月5日土曜日

諏訪大社上社前宮



諏訪大社上社の前宮(まえみや)である。

祭神は八坂刀売神(やさかとめのかみ)である。

諏訪大社最強のパワースポットである。

古来より前宮は本宮の摂社という扱いであったが、前宮とは本宮に対しそれ以前にあった宮との意味もあり、諏訪大社の祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられているのである。

現在の社殿は昭和七年伊勢神宮遷宮の際の御用材を貰い受けて建られたつーことであり、境内は「諏訪大社上社前宮神殿(ごうどの)跡」として長野県の史跡に指定されているのである。

つーことで、一口知識も軽やかに、このようにご利益満点の前宮参拝ということで、駐車場前の大鳥居から歩き始めて、細い石段を登ると手水舎と社務所のある境内に着くのである。

しかし、そこに本殿があると思うととんでもない間違いで、さらにそこから鳥居をくぐって石段を登ると十間廊(じゅっけんろう)と内御玉殿(うちみたまどの)に挟まれた境内に着くのである。

しかし、そこに本殿があるかと思うとさにあらず、そこから石段を登って、さらに200mほど人家の間の急坂をえっちらおっちら登ると、ようやく本殿の拝殿にご到着なされるのである。

まあ、全国の神社仏閣の急坂石段階段を軽々と制覇してきた象師匠からすると、息も乱れない程度の参道であるが、お年寄りやでぶやかばや心肺機能に問題のある人はゆーっくり登らないと、ご利益の前に救急車が必要になってえらいめにあうのである。

この本殿の背部の森林に前宮の祭神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)の墳墓神稜があると伝えられ、東にその旦那の健御名方命(たけみなかたのみこと)の墳墓神稜があると伝えられるのである。

いずれにしてもこの神域に立ち入ると神罰てきめんであると伝えれるので、触らぬ神に祟りなしであるのはゆーまでもないことである。

また、前宮の「おやま」である周囲全域は古代大祝(おおほうり)一族の神霊鎮魂の墳墓であり、散在している石の多くは神族を埋めたとき置いた墳墓の瑩石(たまいし)であると伝えられるので、まあ、前宮一帯が霊地場であるということであるわけである。

この動画を見るだけでも、あなたの波動は悠久の古代にいざなわれ、その霊気神気の恩恵を遺憾なく享受されることは必定であるわけである。

かてて加えて、いつも言うことであるが、神社仏閣参拝のご利益の第一はこの急な石段階段を登ることによる血行促進であるので、早く登ることよりも、一歩一歩、その御利益を踏みしめて「ありがたいありがたい」と念じながら登ることが寛容である。

もちろん、取れ高優先のロケ隊としての象カメラにそんな時間の余裕はないので、すたこらさっさと歩き倒すわけであるが、まあ、体力に合わせてねつーことである。



さて、前宮本殿にて二礼二拍手一礼してなむなむして滞り無くご利益を頂いたら、本殿脇の前宮二之御柱の近くから怒涛の勢いで湧き出てその脇を本を通る水質抜群の湧水の流れである「水眼の清流(すいがのせいりゅう)」を柄杓ですくってごっくんごっくん飲んで喉を潤して、霊水の波動を身体臓器内蔵に染み渡らせるのである。

この水眼の清流が参道の坂道の脇の側溝を怒涛の勢いで流れ人家の用水となるのである。

この水眼の清流の源流はさらに上方の本殿後背部の山中にあるのであるが、もちろん聖域であり、また、地権者の意向により立入禁止であるということを更に申し添えて本日の祝詞奏上と致すのである。

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2015年9月4日金曜日

諏訪大社上社本宮



諏訪大社上社の本宮(ほんみや)である。

本宮(ほんみや)は、赤石山脈北端の守屋山北麓の諏訪湖上流に位置する長野県諏訪市中洲宮山1に鎮座し、祭神は建御名方神 (たけみなかたのかみ)である。

創建については、古事記・日本書紀に記述はあるものの、古すぎていつなんだかわかんないつーことである。

社殿6棟が国の重要文化財に指定され、社叢は落葉樹からなる自然林で長野県の天然記念物に指定されているつーよーなりっぱな神社である。

本宮のご神体は幣拝殿の後ろの森林(通称 御山)であるので本殿は無く、一般参拝客は拝所から斎庭を介して幣拝殿に向かい、ご神体である木々を拝するわけである。

つーことで、この動画は北参道の鳥居からの参拝であるが、これとは別に東参道の鳥居からは階橋をわたって入り口御門から回廊になっている布橋があるのである。



その布橋を、あたしの個人的参拝順序の都合で、出口から入ってカメラを回して、後半に入り口御門を差し込みであるのである。

本宮には本殿がないが、その代わりに勅使門を挟んで東宝殿と西宝殿の二つの宝殿があるのである。

宝殿の一方には神輿が納められ、寅と申の年の御柱祭で御柱建て替えと同時にもう一方へ遷座し、古い宝殿は12年ごとに建て替えられるのである。

神輿の納められる宝殿は「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、もう一方は「権殿」と呼ばれるつーことであるが、このような宝殿は、神社に本殿が設けられる過渡期の状態と考えられているてなことである。

その、歴史的にも重要な宝殿をこの布橋から拝することができるのであるが、これもあたしの個人的都合でそそくさとロケを敢行したせいで、神輿が納められている西宝殿がちらっと映って、権殿である東宝殿の造営ご敷地もちらっと映っているてなチラリズムの状態であるので、象気功信徒の皆様におかれましては速攻で二礼二拍一礼をしてご利益を満喫していただきたい。


まあ、諏訪大社といえば御柱(おんばしら)であるので、あたしの個人的都合で一番近くにあった、本宮二之御柱を霊写して奉上するのである。


ついでに境内にあった、雷電為右衛門の像である。

どーでもいいなんていわずに、とりあえずなんでも「ありがたいありがたい」と拝んでおけば、波動はよろしい方向に向かうということを申し上げておくのである。

さてさて、拝殿を取り巻く山の樹木の霊気神気を受ければ、細胞はいやが上にも活性化されるので、その御利益はいかばかりかというお為ごかしをもって拝礼の証とするわけであるが、動画をご覧になるだけでも、あなたの霊体はその地にいざなわれ、脳波の落ち着きとともに、波動が変わるのである。

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2015年8月24日月曜日

達磨寺(高崎市)



毎年正月の6日7日にかけて夜通し開催される高崎のだるま市で有名な達磨寺(だるまじ)は、群馬県高崎市にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、山号は少林山である。

ちなみに正式名称は少林山鳳台院達磨寺である。

創建は正徳2年と考えられ、本尊は十一面観音・北辰鎮宅霊付尊神である。

黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本における仏教の宗派で、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。

ちなみに本山は隠元隆琦(1592 - 1673年)の開いた、京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺である。

てなことであるが、なんつっても七草大祭だるま市はこの寺の境内で開催されるということで、実際に石段を上がってみると、テレビ番組などで見る様子とは違って、こんな狭いところでやってたのかというぐらい狭い境内である。

テレビの枠というものは、全く別世界を見せてくれるわけである。

まあ、とにかく神社仏閣の石段登りはあたしの楽しみライフワークみたいなもんであるので、この達磨寺の山門から天まで続くと思われる石段を見上げると実に満足できる風情であるのである。

それで、ようやく登りきったと思うと、そこは瑞雲閣と大講堂てな建物のある境内で、達磨寺本堂である霊符堂まではさらに石段は続くのである。

それを愛用のお出かけ用クロックスサンダルでパコパコと軽やかなステップを踏んで登り切ると、本堂のある境内に出るのである。

なにしろ最近はお出かけもクロックスであるが、以前はどこに行くにも夏はビーサンであったので、着るもの履くものにまったくこだわらない象師匠も少しはファッショナブルになったわけである。

クロックスでファッショナブルもへったくれもないもんであるが、ほっとけば便所サンダルでホテルのレストランに入ろうとして入店拒否された経験を持つあたしであるから、格段の進歩であるわけである。

そんなことはどーでもいいので、達磨寺の本堂である霊符堂の入り口の左右はだるま納め所となっていて、だるま以外のぬいぐるみや人形は置かないようにてな張り紙がしてあるのである。

いわば用済みになっただるまさんが山積みになっていて、見方によってはだるまさんの奉納であるし、見方によってはだるまさんの捨て場所であるわけであるが、ものごとはありがたいと思えばありがたいしありがたくないと思えばありがたくないので、もちろん、ご利益至上主義のあたしの面目にかけて、全身全霊をかけてありがたいありがたいと拝んだわけである。

さらに、隣の達磨堂も拝見して、店頭の大だるまも拝見したのであるが、まあ、なんだね、だるまはハリボテだけにクオリティは低いのはいたしかたないということを申し上げて、ご利益満点の心地良い疲労感とともに今日も元気に腹へったのである。

ありがたいありがたい。

なんでもいいから、拝んどけ拝んどけである。

だから、ひとこと多いったら。


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2015年8月22日土曜日

高崎白衣大観音



群馬県高崎市にある高野山真言宗慈眼院の境内に屹立する白衣大観音(びゃくえだいかんのん)てな観音像をひとつ見てやろうではありませんかつーことで、いつものことで象師匠自ら運転のお車をお飛ばしになってご参拝になったのである。

ううむ、おもいっきりてきとーな文章であるが、まあ、それで、カーナビの言うままにそのあたりに着いてみると駐車場が見つからんのである。

あたし同様の物見遊山の観光客の車がぽつぽつ来るのであるが、皆さんがどこへ駐車していいのかお悩みであるのである。

それで、悩んでいてもらちが明かないので、その脇の「参道につき車進入禁止」と書いてあるどこかの寺院の参道の途中のうどん屋で700円のざるうどんを食って、そこのおばさんの許可を得て駐車させてもらって、慈眼院の境内に行ったら、10台分ぐらいの駐車場があるのである。

なんだこりゃつーことである。

駅から遠く離れ山の上にある立地を考慮した場合には、明確な駐車場の確保は当然であるし、この地域全体の町おこしあるいは観光地としての体制ができていないということをご指摘申し上げたいのであるが、もちろん大きなお世話であるのである。

まあ、とにもかくにも、東京からはるばるお越しになって文句百曼荼羅では仏罰に見舞われること必定であるので、その舌鋒の鉾をさらりと収め、白衣大観音を拝見したら、間近で見るとさすがにでかいのである。

高さはなんと41.8メートルである。

なんの気の迷い酔狂でこんなでかいものを作ったのかあたしみたいな神も解けもない不届き者には想像のほかであるが、1936年(昭和11年)に実業家の井上保三郎さんてな人が高崎十五連隊の戦没者の霊を慰め、世の中に観世音菩薩の慈悲の光明を降り注ぎたいつーことに加えて高崎市の発展を願って、観音山の山頂、標高190mの地点観に建立した鉄筋コンクリート製の観音像であるつーことで、重さは5,985トンである。

その建立当時は世界最大の観音像だったのであるが、残念ながら現在は100メートルの仙台観音にその地位を譲られたのである。

ちなみに高さ110メートルの茨城県牛久市にある牛久大仏は、その名の通り観音ではなく大仏であるので、勘違いされる向きも多いのでひとこと申し添えておくのであるが、もちろん、おもいっきりの蛇足であるのはゆーまでもないことである。

白衣観音の内部は9層に分かれており、20体の仏像が安置されていて、原型製作は伊勢崎市出身の鋳金工芸作家・森村酉三さんによるもので、黒川竜玉が施行の指揮をとったつーことであるが、黒川竜玉さんが誰なのかさっぱりわからんのであるが、まあ、そんなことは誰も興味がなかろうから、食いつかずにスルーするのである。



それで、その胎内巡りを300円の料金でできるつーことであるので、まあ、観音様の胎内を巡るのに料金というのもなんであるが、とにもかくにも300円払って入ったら、つまり9階建てあるので、階段をビルの9階まで登るはめになたったのでる。

まあ、あたしは健脚でなる象師匠であるので、なんのこともなく颯爽と華麗に登り切ったのであるが、肥満豊満デブカバの向きは覚悟を決めて、とにかくゆっくりと階段を上らないと、足が弱って、帰りに階段を踏み外して落ちる可能性もあるぐらいの段数であるということを僭越ながらひとこと申し添えておくのである。



まあ、胎内巡りの階段登りでその御利益は十分すぎるぐらいであるが、さらにご利益を重ね重ねでごってりといただくにはやはり本堂に参拝するのが筋見てある。

しかし、この本堂がどうのこうのというよりも、慈眼院字体が、白衣大観音建立後に高野山から移したものであるので、やはりご利益本体は大観音参拝であるというということも僭越ながら申し添えておくのである。

なんでもいいから、ご利益をいただきたければ、高崎までおいでになって9階建てのビルの階段をえっちらおっちら登ることが基本である。

まあ、神社仏閣参拝のご利益の基本は健康成就であるので、階段石段を心を込めて踏破していただきたい。

さらに神仏の波動を得て、自らの波動を整えるということが、人生の方向性を整えることになるわけである。

うまいねどーも。

ひとこと多いだろ。

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2015年7月21日火曜日

大國魂神社のすもも祭



大國魂神社(おおくにたまじんじゃ、大国魂神社)は、東京都府中市にある神社で、武蔵国総社である。

祭神は大國魂大神であり、創建は第12代景行天皇41年と伝えられるのであるが、景行天皇は古事記や日本書紀に記載される12代天皇ということであるので、4世紀前半の創建ということであるわけである。

まあ、とにかくとんでもない歴史のある神社であるのである。

東京五社(大國魂神社、東京大神宮、靖国神社、日枝神社、明治神宮)の一社であり、また、武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮(小野神社、二宮神社、氷川神社、秩父神社、金鑚神社、杉山神社)までを祀るため、「六所宮」とも呼ばれるのである。

まあ、それで、某新聞に7月20日は「すもも祭り」であるつーことが書いてあったので、「これはいかん、大霊能者の象師匠がすもも祭に参加しなくて末代までの禍根となるではないか」と霊能の家系の末裔としての危機感に苛まれて、とるものもとりあえず昼ごろに大國魂神社に到着したらば、この日が休日ということもあって、さらには、境内参道には露店も大出店で、参拝客がごった返して大賑わいであるのである。

すもも祭は源頼朝・義家親子が、大國魂神社に戦勝のお礼参りの際に、神前に「すもも」供えたのがたのが起源とされ、境内にすもも市が立つようになり「すもも祭」といわれるようになったつーこであるてなことである。


それで、境内で「からす団扇」「からす扇子」てな、厄除け・五穀豊穣・悪疫防除の団扇・扇子を売っていたので、縁起物ということで、神の御子のあたしとしても、一応、団扇をご購入なされたのであるが、まあ、お守りあるいは御札であるので、買うではなく頂くというのが正しいのである。

団扇と一緒にくれたからす団扇・からす扇子の由緒てな説明書によると、神代の昔に農作物の害虫を除き、身に降りかかる災難を祓う方法として、御歳神(みとしのかみ)が「からす扇(おうぎ)を以って仰げ」と教えられた故事に基づき、からすを描いた団扇:扇子を縫製し7月20日のすもも祭に頒布しているつーことである。

ううむ、やっぱり、神社参拝は祭礼のときに限るのである。

細胞を活性化させるには、人の氣も重要であるのである。

同じ人混みでも、駅の雑踏や満員電車で疲れるのは、仕事やその他で疲れた人の氣の波動を受けるからであるが、祭りの氣は喜びの波動であり楽しみの氣であるので、細胞がよろしい方向に活性化されて、また、本人が楽しむことによる精神状態による波動の調整にもなるのである。

てなことであるが、もちろんどーでもいいと思えばどーでもよくなることであるので、まあ、良い方に捉えれば何ごともよろしい波動となるのはゆーまでもないことである。

すべてはあなたに内在する神の意向しだいであるということである。

その意向の調整役が象気功である。

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2015年5月25日月曜日

甲斐善光寺御開帳



甲斐善光寺(かいぜんこうじ)は山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院で、山号は定額山(じょうがくざん)で、正式名称は定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)であるのである。

ちなみに、信州の善光寺は宗派に属しておらず、単立寺院であるのである。

甲斐善光寺の本尊は秘仏・善光寺式阿弥陀三尊像は国指定重要文化財であるのである。

善光寺式阿弥陀三尊(ぜんこうじしきあみださんぞん)は、日本最古の仏像と伝承される信州善光寺の本尊を模した一光三尊形式の阿弥陀如来像のことで、善光寺式如来とも呼ばれるのである。

この、南北朝時代 (中国)の金銅仏を源流に持つ善光寺式阿弥陀三尊像は、鎌倉時代以降に日本各地で盛んに制作されたため、日本各地に善光寺や新善光寺と名乗る寺院が点在することとなったのである。

また、山門と本堂も同様に国指定文化財であるのである。

長野県長野市にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺(かいぜんこうじ)と呼ばれることが多く、甲州善光寺(こうしゅうぜんこうじ)、甲府善光寺(こうふぜんこうじ)とも呼ばれているのであるつーことであるが、あたしの愛車のカーナビでは甲府善光寺となっていたので、気の迷いでこの甲斐善光寺に行く場合は、甲府善光寺で検索した方がよろしいかもしれないのである。

まあ、それで、善光寺と言えば今年は7年に1度の御開帳であるが、それをドローン墜落のニュースで見たので、神社仏閣マニアのあたしとしては、ううむ、いろいろとその場しのぎでマニアになるのね、まあ、とにかく、取るものもとりあえず御開帳を拝見しようてなことで善光寺に行こうと思ったのであるが、東京から日帰りで行くには長野の善光寺は遠すぎるので、この甲斐善光寺にご来駕の運びとなったのである。

まあ、この御開帳は長野の善光寺だけかというと、これが六善光寺同時御開帳ということで、信州善光寺、甲斐善光寺、関善光寺、飯田善光寺、善光寺東海別院、岐阜善光寺という、六ケ所で同時開催であるのである。

まあ、要するに本尊が善光寺如来である寺は全部御開帳でも問題がないといえばないわけである。

しかし、これを毎年やってるとインパクトがなかろうつーよーなことで7年に1度ということだよね、きっと、うん。

おいおい、仏様に向かってタメグチかよ。

それで、甲斐善光寺の駐車場についてみたらば、檀家檀徒役員総出で道案内、駐車場整理で大忙しであるのである。

途中の露天のおばさんも駐車場までの路の案内をしてるのである。

まあ、7年に1度であるから、気合が入るとは思うが、この日は平日であったので、参道の露天もシートが被ったままで、参拝客はそれほどでもないのである。

それで、参道から本堂までロケを敢行して、その先、堂内もロケを敢行しようとしたら、堂内は撮影禁止であるのである。

堂内に入るときに入り口で500円払って、垂れ幕の中の秘仏ご開帳の様子をつぶさにご覧になったのであるが、あたしはマナーを守ることに命をかける真面目な社会人であるので、もちろんアホな小僧のようにドローンを飛ばして盗撮なんてことはせずに、浄土宗だけになむなむとお唱えして放屁なされて退散したのである。

放屁は生理現象であるので、仏様もご理解していただけることと存じ上げ奉るのである。

そのあと、長野の善光寺にもある、真っ暗な床下の通路を降りて、奥の鍵を触ってくるというわけのわからないアトラクションも楽しんだのであるが、後ろからも人が来るので、放屁はなされなかったのである。

仏様とちがい、人間様の鼻先で放屁すると、「うう、くっさー」と文句を言われるのである。

ううむ、最低のネタで笑いを取りに行ってるのである。

まあ、そんなことはともかく、動画の後半で本堂前に立つ回向柱が本堂内の秘仏に五色の糸でつながっているので、それを拝めば秘仏に参拝したのと同じ御利益があるのである。

もちろん動画の回向柱を参拝しても同じ効果であるのはゆーまでもないことであるので、ありがたいありがたいとなむなむすればいいわけである。

要は仏縁であるのである。

まあ、平日でこのぐらいだから土日はすごいだろうね、てなことを考えながら、参道の途中にあるかぶとやさんてな信玄餅を売ってる土産物店の店先のテント席でコーヒーとぶどうジュースと高菜漬けのおやきを食ったのである。


大変おいしゅうございましたのである。

おいおい、なんなんだ、霊気神気はどしたんだ?

いやいや、そこが霊能しろーと極貧赤貧びんぼー人思考の勘違い筋違いであるのである。

笑うことが除霊浄霊となり、しいては運気上昇の枢要となるのである。

運気を改善するためにはとにかく笑うことである。

しかし、本堂や拝殿の前でいきなり「わははははははははははははははははーっ」と大笑いすると警察か救急車を呼ばれるので注意しなければならないのある。

楽しんでいただけましたでしょうか。

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2015年4月29日水曜日

ぶどう寺大善寺(甲州市)



真言宗智山派柏尾山大善寺(かしおさんだいぜんじ)は、山梨県甲州市勝沼町にある寺院である、

ぶどう寺大善寺とも呼ばれるのである。

参拝当日は境内整備の工事中で、神社仏閣の最大のご利益お楽しみである参道石段を軽やかに上がっている途中の仁王門の下あたりでショベルカーから降りた業者のおじさんに「あいすみません」とご挨拶されたのであるが、こちらはなにしろロケの真っ最中であるので、ご返事はご遠慮申し上げて、本堂である薬師堂までとんとんと石段を踏んで、本堂である薬師堂の前に立ったら、右の本堂入口から作務衣のおばさんがこちらを覗いていたのであるが、なにしろロケの真っ最中であるので、ご挨拶はご遠慮申し上げて、カメラを回して撮影を続行したのである。

本尊は薬師如来で、ぶどう薬師てなご愛嬌のある別名もあるのであるが、秘仏として祭壇の厨子の中に納められ、五年に一度扉が開かれご開帳となるのであるが、最近では、平成25年10月1日~8日に御開帳が行われたつーことである。

創建については詳細は定かでないが、寺院伝承によれば、奈良時代の養老2年(718年)に行基(天智天皇7年・668年)- 天平21年2月2日・749年2月23日)さんが甲斐の国を訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れ、行基さんはその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが今日の柏尾山大善寺であると言いはっているので、まあ、夢であるから、いってみれば行基さんの幻覚妄想の類いなわけであるが、とにもかくにも、以来、行基さんは薬園をつくって法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられているつーことであるので、まあ、葡萄の薬効といえば糖質とビタミンCであろうから、体力回復免疫力向上てな薬効は充分にあるので、まあ、ものごとは幻覚妄想でも役に立つことがないではないという香ばしい例であるわけである。

それで、大善寺をご見学ご参拝するには、拝観料として駐車場の前にある受付でお一人様500円を払うと駐車場入場のカードがもらえて、それをカード挿入口に差し込むと、ゲートが開いて、駐車場に入れるのである。

なかなか、いい制度である。

駐車の前にお布施という名の寺院管理費を払ってしまうわけである。

ううむ、お布施を「払う」というのは仏事に対して穏やかな表現ではないが、古来より「地獄の沙汰もカネ次第」と言うがごとくであるので、お賽銭でも拝観料でも、とにかくカネを払っとけば間違いないのである。

住職はもとより仏様だってカネもらって悪い気はしないのはゆーまでもないことである。

もちろん現実的には、国宝や重要文化財などの美術品を含めた寺の維持費と、寺院関係者の生活費の一部のためであるのは、いい大人であるあたしはこよなく理解しているので、なんら文句はさらさらないのもゆーまでもないことである。


本堂(薬師堂)は国宝である。

しかし、本堂内は撮影禁止であるので、残念ながら、本堂内の木造の日光菩薩・月光菩薩の両立像を始めとした数々の国指定重要文化財の仏像の皆さんは掲載できないので、ご利益に預かりたい方ははるばる甲州市勝沼のインターチェンジを降りてすぐの大善寺までお越しいただきたいということでお願いするわけであるが、べつにあたしは大善寺からいくばくかのせんでんりょーをもらってるわけではないということは津津浦浦までご理解の程をううむあれだそのまあいいや。

本堂ではちょうど、副住職と思われる方丈様がご祈祷中で、その御札をいただくと思われるおじいさんが祭壇と両サイドの脇間の重要文化財の仏像のあれこれご見学中であるので、あたしもついでにご住職のお経を聞いて、日頃の悪行三昧の浄化をお願いしようと思ったら、大黒さんと思われる多少ご肥満気味のおばさまが「初めてですか?」とゆーので、「始めてです」と申し上げると、「大善寺は甲州一の古刹です」というくだりから始まって、大善寺の歴史から成り立ちをずーっとご説明遊ばすので、正座して聞いてたら、ジーンズがきつくて、「ううう、これは困った、目の前では方丈さんが真剣にお経をがなり立ててるし、おばちゃんも真剣に説明してるし、ジーンスの膝が出てわやだろうし、いったいどーしたらいいだ、これはいったいなんのタタリなんだ」と思ってたら、ようやく説明が終わって、「本堂内の仏様を御覧ください」とおっしゃられるので、まだ気合充分のお経読経の真っ最中で殺気走った太鼓の音も勇ましい中、方丈様の前を「はい、ごめんなさいよ」と横切って、祭壇の内陣・脇間の仏様をじっくりとご見学の上、さらに祭壇の裏の通路に安置された由緒のある石だの仏様だのを「ありがたいありがたい」と心にもないことを心に思いながらささっとご参拝なされたのである。



境内にあるお清めの水である。

お清めだけに、まあ、つまりは手水舎であるので、参拝の前に手を洗って口を漱いでお清めするわけであるが、ロケを先行して順序が逆になってしまったのである。

まあ、とにかくお清めしないとらちがあかないので、撮影終了後に作法に従いお清めしたのである。

しかし、仏様に参拝してからお清めでは、仏様に極めて失礼なわけであるが、まあ、他意はないので、仏様にはそこんところをひとつご了解いただいて、仏罰を当てることはお控えいただくようお願いして、帰りに、受付のある玄関から客殿に入って、池泉鑑賞式庭園を拝見なされたのである。



江戸時代(寛永末)につくられたこの庭園は、高野山の普門院、鳥取の興禅寺と共に江戸時代の日本三名園と云われる池泉鑑賞式庭園で、滝、築山石組みを行い、下側に池泉を掘った典型的な江戸初期の庭園で、庭の西側に巨岩を置き、東側には滝が流れ、鶴石、亀石を配した池があり、客殿からの眺めは、まさに蓬莱山に入った気持ちがするのであるてなことであるが、まあ、とにもかくにも、撮影を済ませて、縁側のソファーに座って心を澄ませて庭園を眺めていたら、隣の客室におばさんが掃除機を持ってこられて、ものすごい勢いでバタンバタンと大音響で障子を閉めたので「わあ、びっくり、蓬莱山に入った気持ちもへったくれもないではありませんか」と思ったのであるが、そこはそれ、天下の大人物大丹田で鳴る象師匠であるので悠然と構えて心の動揺は一寸の間も垣間見せることはないのは無論であるのである。

文章が読みにくいしでたらめだなんて苦情はこの際あちらの方に放り投げておいて、この程度の音で驚くのはあたしの修行ができていないとゆーことが歴然であるので、さらに心を澄ませてお庭を拝見なされていたのであるが、掃除機の音が喧しいのでそそくさとご退散申し上げようと思ったのであるが、ふとみると、客殿には厄除け弁財てな神様が祭ってあるので、カムヤライの御役目としてはつつがなくお参りしたのである。



ああ、ありがたいありがたい。

なんでも、ありがたがっとけば、この世もあの世も丸く収まるのである。

ありがたいありがたいの気持ちを何事にもいつ時にも持ち続けることができれば、人生は実に楽にスムーズに成り行くのであるが、これがね、わかっちゃいるけどやめられないのも人生であるのである。


ついでに、客殿の一隅には、稽古用の槍や刺股・弓などが飾ってあるのであるが、これは武具として置いてあるのではなく、本来は寺の格式を表すものであるつーことである。

あたしは弓もたしなむので、古い弓はどんなもんかねと持ってみようと思ったら、「手をふれないでください」と書いてあったので、弓取り式はしなかったのである。

相撲かよ。


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2015年4月4日土曜日

五所神社(湯河原町)



神奈川県足柄下郡湯河原町に鎮座する五所神社は、当社の社伝によれば、今からおよそ千三百有余年前第三十八代天智天皇の御代加賀の住人二見加賀之助重行らの手によってこの地方が開拓されたとき土肥郷の総鎮守として祀られたつーことである。

五所神社の由来は地元豪族土肥次郎実平が当地の五社を統合して建立したつーよーな説もあるのであるが、社伝にも神奈川県神社誌にもそのへんのことは言及していないのでどーだかわからんのである。

まあ、小さい神社も集めればご利益が倍増すると考えたのかなんなのかは定かでないが、五ヶ所の神社を回る手間が省けて、便利といえば便利であるのである。

同名の五所神社が日本各地に点在するわけであるが、祭神が五柱の場合が多いので、そんなことかもしれないであるが、この神社の祭神は天照大神、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火出見尊、鵜鸕草葺不合尊、誉田別尊、素盞嗚尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊と盛りだくさんで、ご利益もさもありなんというぐらいのものかもしれないので、参拝して損はない立派な神社であるのである。


拝殿の右側に聳え立つ御神木の楠である。

樹齢約850年で昭和59年12月にかながわの名木百選に指定され、平成9年5月に町の天然記念物に指定されたのである。

樹齢は推定850年で樹高36mで胸高周囲8.2mであるのである。

立札には「神宿る木のくすのきに触れて神様の力をいただきましょう」てなことが書いてあるのであるが、やたらと触ると木が痛むだろうから、樹木保存の観点からあたしはナデナデしないのである。

まあ、シロートさんにはわからんことであるが、樹木の波動は触らんでも受けることができるのである。


続いて、同じく境内にある大イチョウである。

平成九年五月 町の天然記念物に指定され、これも、樹齢推定850年つーことであるから、御神木の楠と同時期に植えられたわけであるが、まあ、植えたのか、もともとそこに生えていたいのかは定かではないのである。

平成23年の台風で一部の枝が折れた為、危険回避の都合上、主幹上部を切り、高さを調整したので、本来の雄大な姿を見ることが出来ないつーことであるが、それでも楠とどちらが御神木なのかわからんぐらい立派なお姿であるのであるが、これも、触ると痛むだろうから、あたしはナデナデしないのである。

稀代の大霊能気功家であるあたしの場合は、木から氣をもらうよりも、樹木養生のために、御神木の楠とこの大イチョウも含めて神社境内の樹木に怒涛の氣を送ったのはゆーまでもないことである。

与えることが徳を積むことであるのである。

ありがたいありがたい。

しらんがな。

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2015年3月31日火曜日

福泉寺(熱海市)の首大仏



湯河原温泉街の千歳川沿いにある曹洞宗福泉寺の首大仏である。

千歳川は神奈川県と静岡県の県境にあり、福泉寺は静岡県側であるので、住所は静岡県熱海市泉191であるのである。

それで、まあ、首大仏とはいうが、首から上だけというわけではなく、胸から上の部分であるので、本来なら胸から上大仏と呼ぶのが正しいのであるが、どこの観光案内を見ても首大仏となっているのである。

寺には無料駐車場も完備されているので、そこに停めてじっくりと首大仏をご見学なされてよろしいわけであるが、別に観光客はおられなくて、自転車でこられた地元のおばさんが墓参りをなされておられたのである。

もちろん、地元のおばさんであるから、首大仏をご見学をなされることはなく、本堂にお参りしてから、手桶に水を入れて墓地の方向に歩いて行かれたのである。

もちろん、あたしは古今未曾有の大霊能者といえども、ここに先祖代々の墓があるわけでもない一般の観光客の扱いであるので、墓参りをせずに首大仏をご見学遊ばしたのである。

この首大仏は陶器製で、尾張藩の第2代藩主で名古屋城主徳川光友(とくがわ みつとも、寛永2年7月29日・1625年8月31日- 元禄13年10月16日・1700年11月26日)が、尾張藩の初代藩主で尾張徳川家の始祖である徳川義直(慶長5年11月28日・1601年1月2日-慶安3年5月7日・1650年6月5日)の側室であった母である歓喜院(法名)を弔うために造ったものであるつーことである。

この首大仏は、もとは名古屋城内にあったのであるが、戦後になってこの地に移されたつーことで、その他にも涙なしでは語れないご由緒伝説伝承が多々あるのであるが、めんどくさいので各自でお調べ頂いて「ほほう、そんな言われがあるのか、すごいなー」あるいは「んな、アホな」と感涙に咽んだり爆笑したりしてお楽しみいただきたいのである。

そんなこんなで胸から上大仏ならぬ首大仏をこれでもかと参拝ご見学なされたわけであるが、実に愛嬌のある大仏であるので、首大仏という恐ろしげな名称から想像されるイメージとはかけ離れためでたい波動を醸し出しているので、そうとうに臆病なスピマニアにも安心してご供養いただけるのである。

それでも、怖いという人には、あたしが「怖いの怖いのとんでけー」とやってあげるので、ここは一発勇気を出して、首大仏というの名の胸から上大仏をご拝見して、心から「ありがたいありがたい」と念じれば、あなたの脳波は穏やかな曲線を描いてニルヴァーナ涅槃の彼方へあれこれするのである。

たはは。

たははって。

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2015年3月28日土曜日

貴船神社 (真鶴町)



貴船神社(きぶねじんじゃ)は、神奈川県足柄下郡真鶴町にある神社である。

創建は人皇第59代宇多天皇の寛平元年(平安前期889年)6月15日という大変由緒ある立派な神社であるのである。

主祭神は大国主神・事代主神・少彦名神で、ご利益は開運招福・縁結び・交通安全である。

社伝では、寛平元年(889年)、三ツ石(真鶴岬)の沖に現れた木像12体と書状を社家平井家の祖先が発見し、社殿を建てて村の鎮守としたのに始まるつーことで、現在鎮座1105年を向かえておりますと言い張っておられるのである。

さらに、江戸時代までは「貴宮(きのみや)大明神」と称するなど、キノミヤ信仰が顕著だったのであるが、その後、明治元年までは「貴船大明神」と称し、氏子並びに近郷の人々より厚い信仰で結ばれていたのであるつーことであるが、明治元年(1868年)に貴船神社に改称したつーことである。

なお、貴船神社という社名については、京都市の貴船神社からの勧請ではないつーことであるので、この神社関係者氏子の皆さんの独自の命名による社名であるわけであるが、まあ、海に面した神社であるので、船を基軸とした社名になったのかどーなのかてなことは、神主さんが常駐しておられないので聞くわけにもいかず、定かではないのである。

また、旧御本殿は、現在の本殿の左側に旧本殿があり、現在は「祖霊社」として氏子の皆様の祖霊を御祀りしています。その並びには、石材関係者や商工業者等が奉賛する「山神社」 があり、境内にはその他に「参集殿」・「神輿舎」があり、本殿に向かって右側には今上陛下の御大典記念事業の一つとして本町産出の本小松石作りの「厄除厄祓門」と日参三千日を記念する「心願石」をはじめ北海道産の「さざれ石」などが配置されているのであるが、動画的にはきりがないので割愛させていただいたので、あしからずご了承いただきたいのである。

当神社の有名な例祭「貴船まつり」は、昭和二十三年に神奈川県指定無形文化財に指定され、古式にのっとり毎年七月二十七日・二十八日の両日に行われ、境内に陳列されている神輿を海上渡御する壮大なお祭りで、古くから「日本三船祭」として名高く、県内はもとより全国より押すな押すなの観光客参拝者で、この町も怒涛の大賑わいとなるつーことであるが、もちろんあたしはテレビのニュースの各地ネタで見たぐらいで、現場をご覧になったわけではないのである。

鳥居を潜り初の石段より御本殿迄の石段数は「108段」で、仏教でいうところの煩悩の数とちょうど同じ数であるつー事で、こじつけだなんてことを言わずに、当社では一段一段踏み祓う「禊(みそぎ)の石段」と称し、氏子の方のかなりの御高齢な方でも、また赤ちゃんを抱きながらの初宮詣においても、直接御本殿境内まで車の乗り入れが可能な現在でも、この石段をお昇り頂く姿をよくお見かけするつーことである。

もちろんあたしは車を石段下の郵便ポストの前に停めて登ろうと思ったら、鳥居の前の郵便局の職員のおねーさんが郵便物を取りに来たのである。

「あ、すいません、邪魔ですか」と聞いたら、「大丈夫です、でも、郵便局の裏から車で境内まで行けますよ」とご親切に教えて頂いたので、「ああ、そうですかー、それは楽ですねー、ありがとうございますー」とお礼を申し上げて、無視して石段を豪快に登ったのである。

それで、一気に登って、参拝して、境内から相模湾を垣間見せて、石段下の鳥居を望む景色もとれ高としたのである。

神社のご利益はなんといっても石段であるのである。

ありがたいありがたい。

かんべんしてくれよ、もう。

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2015年3月24日火曜日

成田山新勝寺釈迦堂



成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)は、千葉県成田市にある真言宗智山派の寺院であり、宗派大本山のひとつである。

本尊は不動明王で、関東地方では大人気の寺院である。

また、成田空港に近いことから、外人観光客の皆さんもたくさん訪れるということであるが、この日は外人さんではなく、はっきりとは申し上げられない黒づくめにサングラスといったわかりやすいファッションの不動明王より怖い顔のおじさんと奥様らしきご婦人が、さらに仁王様より怖い顔のおじさんやおにーさんに囲まれて手水舎でお清めになられてご参拝なされていたのである。

もちろん、そのご様子を撮影したいなんてことを願い出たら、あれもこれも危険が危ないので撮影はご遠慮申し上げたのである。

まあ、日々、トラブルイズビジネスの切った張ったをご商売とする皆さんであるから、安全祈願及び商売繁盛の御祈願は当然であるが、昨今の条例でこの手の皆さんのご祈祷を受け入れるのかどーなのかは方丈の腹一つなのかどーなのかは聞いてみたわけではないので定かではないのはもちろんである。

まあ、そんな浮世の無駄話はさておいて、新勝寺の本尊は不動明王であるが、もちろん仏教の寺院であるので、お釈迦さんの教えを広めることが本来のお役目であるから本堂の隣に釈迦堂があるわけである。

しかし、仏教開祖のお釈迦さんが本堂の脇の楚々とした釈迦堂に祀られ、大昔のホラ吹きのパ~がでっちあげた妄想架空の存在である不動明王さんがでかい大伽藍の本堂に祀られているのはいったどーゆーことなのかどーなのかこーなのかとゆーよーなご意見もないではないと思うが、そこはそれ、大人であるあたしが口を極めてののしる筋合いではないのであるのは無論の大きなお世話であるのはゆーまでもないことである。

まあ、不動明王がお釈迦さんの化身であるてな言いわけもあるとは思うが、それなら、化身よりも本身であるお釈迦さんを本堂に祀り、脇に不動明王堂てなものを置くべきであるなんてことを言っちゃあ身もふたもないので思っても口には出さずに書いてしまうわけである。

まあ、昨今の宗教学者のご研究ではお釈迦さんもクライストさんも政治的なでっちあげであるてなご意見もあるので、それをインフラとすればどちらを優先すればいいのかはなんとも言えないところである。

誤解しては困るがあたしは在来仏教某宗護寺会役員で、数年前には檀家総代も務めた敬虔なる仏教徒であるので、けっして日本の仏教のありようを批判云々しているわけではないのである。

しかし、あたしは真言宗でもなく浄土宗でもなく曹洞宗でもなく臨済宗でもなく天台宗でもなく華厳宗でもなく時宗でもなく日蓮宗でもなく、言ってみれば釈迦宗であるので、お釈迦さんをご本尊として、その教えをこれでもかと実践する修行者であるわけであるが、そのあたりがたーい教えは、神の電波によりおつむのお花畑にビビビと交信するので、さすがに心配なので一度入院した方がいいかもしれないのである。

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2015年2月15日日曜日

鹿島神宮の御手洗池



茨城県鹿嶋市に鎮座する鹿島神宮境内の鹿島神宮園地御手洗公園にある神池の御手洗池(みたらしいけ)である。

鹿島神宮の大鳥居から歩いて歩いて拝殿にたどり着き、さらにそこから歩いて歩いて、さざれ石を通り過ぎて鹿園を通り過ぎて奥宮を通り過ぎて売店を通り過ぎて、かなりの急坂をとっとことっとこ飽きるほど下ったところにこの御手洗池があるのである。

ここにたどり着くと、もちろん帰りはかなりの急坂を逆方向に登らなければならいので、あたしみたいなパ~でも元気が一番体力自慢脚力自慢のやからはともかく、体力と脚力に自信のない人は売店あたりの坂の上から参拝した方が無難であるかもしれないのであるが、神社仏閣参拝のご利益は体力増強健康増進ということが第一であるので、トレーニングと心得てチャレンジして損はないのであるのは無論であるのであるが、心臓にお病気のある人なんかはご利益の前に命が危ないのでやっぱりやめた方がいいかもしれないのであるということを一言ご注意申し上げて本日のご挨拶といたしたいのである。

なんの挨拶だよ。

つーことでボケとツッコミの間合いも絶妙軽やかに、御手洗池は、神宮境内の東方に位置し、潔斎(禊)の地であり、古くは西の一の鳥居がある霞ヶ浦(北浦)の大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられ、伊勢神宮内宮の五十鈴川御手洗場と同様に精進潔斎の神聖な水場であるであるつーことである。

動画の左上のあたりに南崖からの湧水が流れ込み湧きだし、水深は1メートルほどであるが、ごらんのとおり澄み渡り神の池の面目躍如であるのである。

嘘かまことか、この池に大人が入っても子供が入ってもその水深は乳を越えないといわれ、「鹿島七不思議」の1つに数えられているのであるが、あたしが試しにドボンと飛び込んだりしたら、左側で池の解説をなされている神職の方に怒られるのは火を見るより明らかであるので、その真偽はいまだ以って定かではないのはゆーまでもないことである。

江戸時代まではこの場所に御手洗涼泉寺という寺院があったつーことであるが、今はないので何が何だかわからないのである。

つーことで、池に向かって二礼二拍手一礼して「ありがたいありがたい」と連呼申し上げたわけである。

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2015年2月14日土曜日

鹿島神宮



鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中に鎮座する神社であるのである。

伝承によると、創建は、古事記、日本書紀により日本の初代天皇とされる初代神武天皇元年である。

神武天皇の崩御日は日本書紀によれば紀元前586年(神武天皇76年)3月11日であるとされているのであるが、神武天皇即位紀元については、西暦に換算して紀元前660年であるとされる説もありーの、神武天皇は135歳まで生きたなんでわけのわからん話もありーので、初代神武天皇元年がいったいいつなのかは、さすがの大霊能者のあたしにもなにがなんだかわからんので、興味のある歴史マニアの人は心行くまでお調べいただいてお楽しみいただきたいのである。

祭神は日本建国・武道の神様である武甕槌大神 (たけみかづちのおおかみ)であり、神武天皇元年創建の由緒ある神社であるのである。

武甕槌大神は、神代の昔、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて香取神宮の祭神である経津主大神(ふつぬしのおおかみ)と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されたのであるつーことであるが、まあ、神代の昔から国盗り合戦の戦乱があり、その親方・頭領が神に祭り上げられたということがわかるわけであるてなことを言うと身も蓋も味も素っ気もなくなるので、ここはひとつ神の御業ということにしておお楽しみいただきたいのである。

それはともかく、鹿島神宮は延喜式神名帳に記載された式内社(名神大社)であり、常陸国一宮(いちのみや)である、

旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社である。

全国にある鹿島神社の総本社で、千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社であり、また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

まあ、それで、駐車場に車を停めて、門前町の商店街を抜けて、大鳥居からからカメラを回して歩き始めたわけであるが、これが楼門までけっこうな距離である。

歩き始めてすぐ「ありゃりゃ、こりゃいかん」思ったのであるが、まあ、カメラを回し始めてしまったので、途中でやめるわけにもいかず、どんどん歩いて楼門をくぐって拝殿まで怒涛の進軍を決行したのである。

まあ、山間の神社仏閣につきものの石段階段がないので、お気楽なもんであるが、鹿島神宮は伊勢神宮を彷彿とさせる森林に囲まれた広大な境内であるので、散歩コースとしては実によろしい環境にあるので、近隣の郷の皆さんはお楽しみいただけるかもしれないのである。

でも、観光客以外には歩いている人も見かけないので、散歩コースとしては人気がないのかもしれないのかもしれないのである。

あるいは散歩は運動不足の都心の人の趣味で、自然に恵まれて農作業に勤しむ皆さんにはいらんことであるのかもしれないのである。

神のご利益というのは、参拝による歩行あるいは階段昇降の運動による健康ご利益がもっとも大きなものであるので、なんでもいいから、日々、神社仏閣に詣でて「ありがたいありがたい」と拝んで頂くことをご推奨申し上げるのである。

人間の健康は歩くことからで、とにかく歩いてナンボであるので、それこそ神代の昔からなんやかんや理由をつけて歩くようにあれこれ考えられてきたわけである。

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2015年2月12日木曜日

パワーストーン鹿島神宮の要石



茨城県鹿嶋市宮中に鎮座する鹿島神宮境内にあるパワーストーン「要石」である。

香取神宮の要石が凸状であるのに対して、鹿島神宮の要石は凹状で小さいのである。

小さいといっても、見えるところはほんの一部で、いわば氷山の一角であるので、その下は20㎞ぐらい離れた香取神宮の要石とつながっているといわれるぐらい巨大な石であると言われているのである。

パワーストーンはスピリチュアルマニア垂涎のアイテムであるので、ケイタイやスマホの待ち受けにするために熱心に写真に撮っておられるのである。

パワーストーンであるから、パワーがあるわけであるが、どんなパワーかというと、地震の原因と言われる地中の大ナマズが暴れるのを、千葉県香取市の香取神宮の要石とセットで押さえ込んでいるのである。

言い伝えでは、地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大ナマズあるいは竜を押さえている、あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したと、聞きようによっては動物虐待とも思われるひどいことを言われているのである。

まあ、とにかく地震の原因の大ナマズを押さえ込んでいるためこれらの地域には大地震がないという話であったのであるが、大地震がどのくらいの震度なのか定かではないのでなんとも言えないところである。

とにもかくにも、なにしろ地震を起こす地中の大ナマズを抑え込むぐらいであるから、そのパワーたるや想像を絶するものであるのを創造されることが想像に難くないわけである。

その、地中の大ナマズ自体がどのくらいでかいのかは定かでないのであるが、鹿島神宮の要石は大鯰の頭を押さえ、香取神宮の要石は尾を押さえているということであるので、鹿島神宮と香取神宮の間の距離から推測して、体調は少なくとも20㎞以上であるのは確かであるのである。

これはもしかすると、世界一巨大な生物であるわけであるが、ギネスに登録されている話も聞かないし、世界遺産にも登録されていないし、世界を見渡しでもこの地域に一匹のみの生息であると思われるのに絶滅危惧種に指定されているという話も聞かないのである。

まあ、そんなよーな大ナマズの上に乗ってこれでもかと抑えこんでる石であるから、そら、パワーも半端ではないわけである。

そのパワーの出どころがこの小さなボコ石であるのであるので、そのパワーを頂くべく、香取神宮の要石と合わせてケイタイ・スマホの待ち受けにすることをご推奨申し上げるのである。

でも、基本的には大地震の被害除けのご利益であるのである。

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2015年2月10日火曜日

香取神宮



香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社である。

主祭神はフツヌシ(経津主)として知られる経津主大神 (ふつぬしのおおかみ)で、別名は伊波比主神・斎主神(いわいぬしのかみ)、斎之大人(いはひのうし)てなことである。

経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神であるが、日本書紀のみに登場し、古事記には登場しない神である。

また、出雲国風土記では布都怒志命として登場するつーことであるが、まったく興味がないので、なんにことやらさっぱりであるのである。

神のお告げの御筆先を自認する霊能商売の不肖象師匠としては、実に不謹慎なことであるので、これからは日本書紀と乞食いや古事記をじっくりとご拝読なされて、日本の古代史をこころゆくまで認識したいところであるが、おそらく絶対にご拝読されることはないのはご想像のとおりである。

香取神宮は、式内社(名神大社)で、下総国一宮である。

式内社とは延喜式内社の略で、延長5年(927年)にまとめられ、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式」の巻九・十の神名帳 (じんみょうちょう) に記載されている神社を指すのである。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっているのである。

延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)あるいは比定社(ひていしゃ)と呼ばれるのであるつーことであるが、しかしなんだね、どんどんめんどくさくなるのである。

それでもめげずに、さらに、一宮(いちのみや)とは、その地域の中で最も社格が高いとされる神社のことである。

香取神宮の社格は、明治維新後に作られ第二次大戦後にGHQによって廃止された近代社格制度(旧社格)では官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社であるのである。

社格制度廃止後、伊勢神宮を除き全ての神社は対等の立場であるとされたのであるが、旧の官国幣社や一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすることと定められ、その対象となる神社が同規程の「別表」に記載されていることから、「別表に掲げる神社」「別表神社」と呼ばれることとなったのであるつーことである。

まあ、パワースポット探訪の先駆けとして亀有の香取神社にはすでにご参拝済みであるが、香取市の香取神宮は関東地方を中心として全国のあちこちにある香取神社の総本社で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社であるのである。

また、宮中の四方拝で遥拝される一社であるつーことであるから、大変エライ神社であるのであるつーことを踏まえて、古今未曾有の大霊能者を自負する象師匠といえども一心不乱に気合を入れてのご参拝である。

四方拝において天皇が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮の氷川神社・山城国一宮の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)・石清水八幡宮・熱田神宮・常陸国一宮の鹿島神宮・下総国一宮の香取神宮であるつーことであるが、このブログの文章はただでも漢字多様で読む気が失せるのに、さらに漢字だらけのわけわからん内容をこれ以上のめりこんでも読む人がだーれも居ないと思うので、このへんで勘弁してやるのである。

香取神宮は、常陸国一宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在であるのである。

まあ、おおまかにそんなことであるが、門前町は香取神宮側から見ると閑古鳥である。


駐車場方面から見ると開いてる店ばかりに見えるのであるが、鳥居に近づくにつれて閉店の店が多くなるのである。

この日が平日ということもあると思うので、日曜祭日はどの店も開いてにぎわっているのかもしれないのである。

象気功はリアリズムをもって旨とするので、ふつーのブログでは避けて通る暗部もしっかりと描写してジャーナリストとしての使命をこよなく果たすのである。

つーことで、神社をご参拝申し上げる正しい順序は、二礼二拍手お賽銭一礼であるので、お賽銭二礼ニ拍手一礼ではよろしくないということをひと言ご注意申し上げておくのである。

さらに、お賽銭を賽銭箱に投げ入れてはいけないのである。

神様に向かって「ほらよ!」では、ご利益よりも神罰があたるのは当たり前であるので、そっと丁寧に入れなければならないのである。

また、神社においてはご縁がありますようにということでお賽銭は五円玉が基本であるが、現在の物価ではあまりにも少なすぎるので、あたしは大枚百円玉をそっと丁寧に放り込んだのである。

だから、放り込むのはやめろ。

ちなみに寺院においてはご縁があるとまずいので五円はよろしくないという話もあるが、寺院を葬儀場と勘違いしている馬鹿げネタであるので、あたしら敬虔なる仏教徒としては本来のお釈迦さんの教えの拠り所としての寺院の存在意義を復権したいところである。

おいおい、話がどこへ行くんだ。

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2015年2月8日日曜日

パワーストーン香取神宮の要石



千葉県香取市に鎮座する香取神宮のパワーストーン要石(かなめいし)である。

なにしろ要石であるので、要になっている石であるわけである。

古くは地中にお住いの大ナマズが暴れて地震になるということが信じられていたので、そのナマズを抑え込むための霊石であるのである。

霊石であるから、霊が憑いている石であるのである。

本来なら怖い石であるわけであるが、まあ、悪霊ではなく善霊が憑いているということかもしれないし、石自体が霊であるのかもしれないが、まあ、どーでもいいのはゆーまでもないことである。

しかし、何事にもこだわるマニアな誰かがソナーで探索したわけではないのでその真偽はいかばかりかと思う次第であるが、そんなことを真剣に考えてソナーを買ってしまった人はすみやかに病院に行って、センセーとおつむの治療をどーするかということについて相談した方がよろしいいかもしれないのである。

鹿島・香取の要石は大ナマズの頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられているのである。

茨城県鹿島神宮の要石と地下でつながっているという言い伝えがあり、地中に埋まっている部分はとんでもなく巨大で、水戸光圀さんが掘らせてみたが堀きれなかったつーことである。

まあ、黄門様が掘るというとあらぬ方向に話が行きそうであるが、ここはひとつぐぐっとこらえて方向性を強固に保つのである。

この要石をケイタイの待ち受けにすると運気が上がるというまことしやかな噂が広がっているのかどーなのか、参拝客の皆さんはケイタイやスマホを向けて写真を撮っているのである。

まあ、こんなものを待ち受けにするだけで運気が上がるとは思えんが、べつに手間がかかるわけでもないので、写真を撮っておいて損はないわけである。

ケイタイの待ち受けにするだけで運気が上がるなら、これだけ長い動画を貼り付けたこのブログは激烈なご利益に預かれそうであるが、それもこれも神意であるので無理矢理な期待をすると神罰てきめんであるのはさもありなんということになるのである。

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2015年1月10日土曜日

大寶寺(鎌倉市)



大寶寺(たいほうじ)は、鎌倉市大町にある日蓮宗の寺院で山号は多福山で院号は一乗院であるので、正式名称は多福山一乗院大寶寺であるのである。

創建開山は一乗院日出上人(文安元年・1444年・本覚寺の開山でもある)で、本尊は三宝祖師である。

境内には、佐竹氏の守護神社の多福明神社(大多福稲荷大明神)があり、旧本山は松葉ヶ谷妙法寺(六条門流)で、通師・堀ノ内法縁である。

この場合の通師・堀之内はペーパー詐欺師の堀之内さんつーことではなく、日蓮宗の分派の名称であるのはゆーまでもないことである。

境内地は佐竹屋敷跡と呼ばれ、佐竹屋敷跡は後三年の役の後、源義光(新羅三郎義光)がここに館を構えて以来、その子孫である佐竹四郎秀義以降代々の一族が居住したと言われている住居跡である。

佐竹氏の遠祖にあたる源義光(新羅三郎義光)は永保3年(1083年)の後三年の役戦勝は、日頃から信仰していた多福大明神の加護によるものと思い込み、この地に多福神社を建てたと伝承されるのである。

その後、明応8年(1499年)に松葉ヶ谷妙法寺の日証上人により八雲神社から多福神を再び境内に勧請したつーことである。

動画で入り口から本堂に向かう途中で見える、石造りの鳥居のある社(やしろ)が多福明神社である。

ううむ、なんだ、そーゆーことであるが、ご由緒があれこれある割には、控えめで質素なお寺さんである。

まあ、雪がちらほら舞い降りて、動画が環境ビデオの様相を呈しているわけであるが、2014年元旦であるこの日は午後から大雪になって、雪の鎌倉という奇跡のような情景を数時間垣間見て、あたしの情緒もいかばかりか癒やしのうううくそつまらんやめやめ。

毎年、恒例で鎌倉に初詣に行くので、このまま行くと鎌倉の神社仏閣を網羅して、鎌倉市観光協会の手先みたいな方向性に向かっているのであるが、べつに観光協会からいくばくかのナニをナニしてるわけではないのは無論であるが、ナニをナニしてくれるというなら否やを唱える気持ちはもうとうないのはゆーまでもないことである。

まあ、まだまだ、鎌倉には大小の神社仏閣がひしめいているので、神社仏閣マニアにはたまらん聖地である。

そうはいっても、神も仏もないあたしみたいな人間が冷やかしであちこち参拝しても何かご利益があるとも思えんが、日本の将来日本の衆生のために今日も明日も御筆先としての御役目を心ゆくまで果たして徳を積むのである。

お釈迦様の教えの根本は、「悪いことをしない、善いことをする」ということであるので、これが善いことかどーかはともかく、悪いことではないかもしれないので某宗派護持会役員でもある敬虔な仏教徒としての無神論者象師匠の面目躍如であるのである。

文章がどんどんでたらめになるのであるが、こんなところで尺は足りるかね。

どれどれ。

なんなんだこれは。

怒らんといて怒らんといて。

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2015年1月7日水曜日

安国論寺



安国論寺(あんこくろんじ)は神奈川県鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院で、正式名は妙法蓮華山安国論寺であるが、名越(なごえ)は、神奈川県鎌倉市大町にある旧地名で名越切通し、名越隧道、名越踏切にその地名が見えるつーことであるが、だからなんだなんて言わないでほしいのである。

長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも呼ばれるのであるつーことである。

松葉ヶ谷(まつばがやつ)は、安国論寺のある神奈川県鎌倉市大町の名越(なごえ)に含まれる一地域名であるが、まあ、別称の場合はわかりやすく地名などが多いわけである。

旧本山は比企谷妙本寺で、池上・土富店法縁つーことであるが、この場合の法縁は日蓮宗の分派門流のことである。

本尊は南無久遠実成本師釈迦牟尼仏で、創建は建長5年(1253年)で、開基開山はもちろん日蓮聖人であると言い張っているわけであるが、弟子の日朗さんが文応元年(1260年)に、日蓮さんが前執権北条時頼に頼まれもしないのに大きなお世話で建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりであるつーことであるので、正確には創建は日朗さんであるのかもしれないのであるが、そんなことを言うと宗派の偉い人から苦情が来るかもしれないので、そこはそれ、あたしもいい大人であるので、人の悪口をいうとろくなことにならないなんてことは言わずに、ここはひとつ日蓮さん創建つーことで軽やかに手を打つのである。

その他、松葉ヶ谷法難時に、白猿に導かれて避難した場所である南面窟や日朗が出家剃髪した場所で荼毘に伏して欲しいとの遺言により荼毘に付した日朗上人荼毘所があるのであるが、お時間の都合で、ご見学にはならなかったのである。

さらに、裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望でき、日蓮さんがそこから富士山に向けてお題目を唱えたとされるのであるが、なんの意味があるのかわからんのである。

まあ、お題目をなんにもないところに向けてひとりでわめいたんじゃアホみたいであるので、パフォーマンスとしても霊峰富士のお山は最適であるかもしれないのであるが、これ以上ツッコミを入れるとマジで誰かに怒られるのでこの辺でお開きとするのである。

なお、東芝社長や経団連会長を務め、熱心な法華信者であった土光敏夫さんの菩提寺でもあるつーことであるが、土工さんの生前をご存知の方は丹田養成における南妙法蓮華経のコトタマの威力いかばかりかという、分かりやすい例である。

まあ、日本歴代の偉い人で無信心無宗教なんて人はあまり聞かないので、あたしみたいな神も仏もない人間は絶対に偉くなれないのがよーくわかるのである。

何事も神仏のお導きにより、人生の良否は決定されるのである。

神仏のお導きとはもちろん、あなたの細胞の活性度である。

その道標として象気功があるわけである。

ちゃんちゃん。

こらこら。

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2015年1月5日月曜日

安養院(鎌倉市)



安養院(あんよういん)は、神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺院で、山号は祇園山である。

本尊は阿弥陀如来で、本堂内には寺の本尊の阿弥陀如来坐像(室町時代)の背後に札所本尊の千手観音立像(江戸時代)を安置するのである。

つーことで安養院は坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所第3番札所であるのであるが、興味がまったく無いのでなんのことかまったくわからんのである。

寺号は長楽寺であるが、長楽寺は安養院の前身寺院で、1333年(元弘元年)兵火により焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号したのである。

なお、安養院は政子の法号から取られたものである。

また、1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立したのに始まると伝えられる田代寺が江戸時代になって安養院に統合され、本堂の本尊阿弥陀如来坐像の後ろにある千手観音は田代寺にあったものであることから田代観音とも称されているのである。

ううむ、なんだな、神も仏もないあたしが神社や寺をぐるぐる回ってカメラをぐるぐる回してるのも、ひとつには神のお思し召しであろうし、ひとつには仏縁であるのである。

だからといって悔い改める兆しはさらさらないし、帰依する気配も皆無であるのである。

それでもやっぱり正月元旦は、鎌倉のあちこちの神社仏閣を巡って賽銭を投げ込んで、心にもないことを口走って、そのあと小町通りの店で食ったり飲んだりしてお楽しみなるのが毎年の恒例になってしまったのである。

てなことで、その元旦鎌倉初詣も有名ドコロは抑えてしまったので、だんだんそーでもないところを観光マップで調べたりして、ご参拝の運びと成る次第になったのである。

それで、鎌倉駅からてくてくお歩きになって、別願寺てなお寺に行ったら、墓地とふつーの民家みたいなものがあるだけで、どこが本堂なのかわからんので、さすがにカメラは回さなかったのである。

別願寺から道路を挟んで向かいに上行寺てなお寺があったのであるが、ううむこれはいかん、つーよーなご利益売り込みの張り紙が大量に張ってあるので、一応、回したのであるが、オクラ入りとなってしまったので、興味のある方は鎌倉に足をお運びになってなにがううむいかんなのか確かめてお楽しみに頂きたいのである。

安養院はううむいかんというような張り紙はないので、ぐるぐる回したのであるが、山門の真ん中に拝観料が100円と書いた箱があるのである。

これを無視するともちろん仏罰が当たるので、撮影後にお賽銭と拝観料を致し方なく払ったので、200円の出費となったのである。

仏様に対して致し方なくはねーだろ。

なむあみだむなむあみだぶ。

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2015年1月4日日曜日

大巧寺(おんめさま)



大巧寺(だいぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市小町にある日蓮宗系の単立寺院である。

特定の檀家を持たず、安産祈願を行う寺として知られているのである。

また、現在は単立寺院であるため本山を持たないわけであるが、旧本山は、鎌倉市大町にある比企谷妙本寺である。

大巧寺はもともと大行寺(だいぎょうじ)と称する真言宗の寺院で、当初は鎌倉市十二所の梶原景時の屋敷内にあったのである。

創建年や開山などは不明であるが、源頼朝の祈願所とされた事から、鎌倉時代初期頃までには創建されていたと推測されるつーことであるのである。

この寺で頼朝が軍議を行った結果、大勝利を収めたため、頼朝の命により「大巧寺」という名称に改名したのであるが、呼び名はそのまま「だいぎょうじ」となったわけである。。

まあ、詳しい経緯は不明であるが、文永11年(1274年)、大乗坊日澄により日蓮宗に改宗し、これに基づき現在では開山を日澄としているのである。

この大乗坊日澄は、鎌倉時代中期から後期にかけての日興門流の僧である寂仙房日澄(1261年-1310年)とは別人である。

その後、元応2年(1320年)2月に現在の鎌倉市小町へ移転したのであるつーことである。

天文元年(1532年)、五世住職の日棟が難産で死んだ女の霊を成仏させるという伝承が生まれ、この伝承が広まって以降、安産祈願に霊験のある寺として知られるようになったつーことである。

現在では大巧寺は別名「おんめさま」と呼ばれ、安産祈願の寺として知られているのである。

「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉で、境内に祀られている「産女霊神(うぶめれいしん)」を指すのである。

まあ、てなことであるが、大巧寺は鎌倉駅を出てすぐの好立地にあるため大人気の寺院であるつーことである。

しかし、このロケを行った日は、正月元旦であったので、ものすごい数の初詣の大群衆の皆さんは鎌倉駅を降りると一目散に段葛から鶴岡八幡宮にご参拝なされるので、大巧寺境内には人っ子一人だーれもいないのである。

大群衆の皆さんは鶴岡八幡宮参拝が終わると小町通りを通って鎌倉駅にご参集なされてご帰宅なされるので、やっぱり大巧寺にはだーれも来ないわけである。

これでは檀家を持たない大巧寺の経済状態はいかがなものかとご心配申し上げるわけであるが、もちろん大きなお世話であるのである。

まあ、つまり、初詣よりも安産祈願で日々ご参拝ご祈願のあれこれがあれこれするので、境内の様子を見てみるとそれなりにあれこれしているわけであるとご推察申し上げるわけであるが、ご住職に「ほんとのところはどーなんでしょーか」とお聞きしたわけではないので、全く定かで無いのは論を俟たないところであるのである。

これから、ご家族ご親族にご出産のご予定のある信者の皆様方には、大巧寺にご参拝なされておうめさまのご利益を心ゆくまでご堪能なされることを心より祈念いたしまして新年のご挨拶といたしたいのである。

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