2021年1月15日金曜日

秋葉神社(甲州市)


山梨県甲州市塩山上於曽にある秋葉神社である。

秋葉神社(あきはじんじゃ、あきばじんじゃ)は、日本全国に点在し、神社本庁傘下だけで約400社ある神社である。

祀られた祭神の多くは神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん)である。

この甲州市の秋葉神社は塩山の地名の由来にもなった「塩ノ山」の西の裾野にあり、向嶽派の大本山である向嶽寺の境内に鎮座し、いわゆる神仏混合の形態で向嶽寺の鎮守として祀られているのである。

創建は元文四年(1739)で、祭神は火伏せの神の「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」である。

あたしゃ基本的に境内に集積する氣には興味があるが、神仏の由来にはとんど興味がないのでだんだん文章が怪しくなるが、何しろこのブログ自体がいわば氣を解析する神事であるので、あだやおろそかにおためごかしを書くと神罰も仏罰もてきめんに当たるのは言うまでもないことである。

何言ってるの?

もちろん象気功信者におかれましては心して拝読し、霊氣神氣のご利益を受けて「ありがたいありがたい」と手を摺合わせて拝み倒すことが重要である。

神がいるいないはともかくとして、拝むものがあったら拝んどけば間違いないのである。

宇宙の組成からしても神なんか片腹痛いとたかをくくっていて、万が一、神がいるとしたら、「このやろう、素通りしやがって」と神の恨みを買ってえらい目にあわないとも限らないからである。

拝むのには経費は1円もかからんので、もしかしたらご利益で丸儲けということもあるわけである。

とにかく神仏に出くわしたら拝んどけ拝んどけである。

もちろん、あたしはいつものごとく清水の舞台から飛び降りた気持ちで大枚100円を払って拝み倒したのは言うまでもないことである。

★ただいま大変不適切な発言がありましたので訂正してお詫びいたします。

払って→寄進して

何度も解説しているが、神仏のご利益を望むのであれば、拝むときにも神の機嫌をそこねないようにひたすら「ありがたいありがたい」と唱えるのがコツである。

コツかよ。

神といえども、見ず知らずの者に「火災から守って下さい」だとか「交通事故に遭わないように」だとか「宝くじが当たりますように」だとか「入学試験に受かりたい」だとか、「あの人と結婚したいのうふん」だとか、はした金で勝手な依頼をされたら怒るのは当たり前である。

あたしなんかは大枚100円の身銭を切っても「ありがたいありがたい」とお礼を述べるのみである。

誰だって、お礼を言われりゃ悪い気はしないのである。

「初対面で礼なんか言いやがって、ふざけた野郎だ」なんて思うやつはいないのである。

神をつかまえて「やつ」かよ。

てなことで、ありがたいありがたい。

2021年1月8日金曜日

向嶽寺

象気功

向嶽寺(こうがくじ)は、山梨県甲州市にある禅寺で臨済宗向嶽寺派の大本山である。

山号は塩山で、本尊は釈迦如来である。

数多くの重要文化財等が所蔵安置されているが、非公開寺院のため建物内部や国指定の名勝である庭園は原則的に拝観不可である。

放生池と渡り橋であるが、いきなりの通行止めである。

池を渡るから渡り橋であるが、「そのまんやんけ」なんてつっこみはこの際控えるのである。

まあ、橋が老朽化して保存上ヤバイということであると解釈するのが妥当であるのは言うまでもないことである。

それで、無理やり橋を渡って橋が壊れて池に落ちたり、見つかって訴訟沙汰になるのも困るので、ぐるりと迂回して、テクテク歩いて本堂に向かうのである。

年末のロケであったので、本堂では大黒さんと若大黒さんらしき奥さんお二人が暮れの大掃除の真っ最中である。

あたしがカメラを回していたら気が付かれて丁寧にご挨拶されたのであるが、物見遊山のあたしごときが年末の大掃除の邪魔をしては大変恐縮であるので「お気遣いなく、お掃除を続けて下さい」と申し上げたのでお蔵入りとなり、動画の本堂前はテイク2の映像を編集してつなげたのである。

奥に見えるのが方丈前門である。

まあ、この裏手に国指定景勝である庭園があるわけであるが、拝観不可であるので、あっさりと諦めて境内を徘徊してみるのである。

徘徊かよ。

いつものおだやかなつっこみである。

もちろん死ぬほどつまらんつっこみである。

それでこれが方丈である。

方丈とは維摩 (ゆいま) 経の主人公である維摩の1丈四方の居室のことであるが、転じて禅寺における住職の居室、さらには寺の住職の呼称である。

だから禅宗の一般檀徒は住職を方丈様とお呼びすることが多いのである。

だからなんだと言われてもそーなんだからショーがないじゃんと言うこと以外言うことはないのである。

無駄な尺稼ぎはやめろ。

ハイ。

意外に素直ね。

運気向上には素直が一番。

ああ、だからあたしは運気が悪いのか。

うるせーよ。

向嶽寺の鐘楼である。

寺には鐘楼がつきものである。

つきものといっても地縛霊や憑依霊のたぐいではないのである。

だじゃれかよ。

やる気がぜんぜん見えないという声も聞こえるのは気のせいかね。

声が聞こえるのかよ、ちゃんと薬を飲め。

誰が脳がお花畑だ。

釈迦如来石像と灯籠である。

まあ、釈迦が開いた仏教であるから本尊がそのまんま「釈迦如来」であるのはごもっともである。

禅宗の臨済宗や曹洞宗や黄檗宗は一応のお題目として「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ」と唱えるのもごもっともである。

禅宗の一応のお題目としてのこの「南無釈迦牟尼仏」は、何度も唱える「なんみょーほーれんげーきょー」や「なんまいだー」に比べて、「なむしゃかむにぶつ」が早口言葉のようで極めて言いにくくて舌を噛んでしまう恐れがあるためか三度だけ唱えるのがふつうである。

しかし唱えやすいお題目に改めるという話は聞いたことがないので、この先も極めて舌を噛みやすいこのお題目を唱えなければいけない禅宗の皆さんは気の毒であるが、滑舌は良くなるかもしれないのである。

もちろん、ものすごい大きなお世話である。

まあ、この世はすべてがいわばリンクし一体であるので、何をしてもしなくてもなるようにしかならんし、なるべくしてなるということである。

それが釈迦が悟った縁起である。

なむしゃかむにぶつ、なむしゃかむにぶつ、なむしゃかむにぶつ。

いててて、舌噛んだ。

2021年1月6日水曜日

放光寺(甲州市)

象気功

放光寺(ほうこうじ)は、山梨県甲州市塩山藤木にある寺院で山号は高橋山である。

真言宗智山派に属し、本尊は金剛界大日如来である。

入り口の総門である。

放光寺は周防正行監督、本木雅弘主演の映画「ファンシイダンス」のロケ地でもあるとウィキに書いてあるが、残念ながらあたしゃこの映画は見てないのである。

映画評論家のはしくれとして非常に恥ずかしいことであるが、そのうち見るかも知れないということでお茶を濁すのである。

誰が映画評論家だ。

すみません、ただの嘘つきです。

総門の左横に放光寺の略縁起てなものが書いてあるが、古くて読みにくいので読まないのである。

読まないのかよ。


代わりに参道の入り口付近の立て看板の説明を読んだのである。

なにしろ放光寺は「やまなしの歴史文化公園」のひとつである。

ひとつかよ。

つっこみになってねーぞ。

総門をくぐると遥か彼方に仁王門が見えるのである。

見えるのかよ。

つっこみになってないったら。

仁王門の左右には重要文化財の阿吽の金剛力士像つまり仁王様が門番としておられるはずである。

はずかよ。

有り体に言えば写真を撮るのを忘れたのである。

言わなければ分からんことであるが、尺稼ぎに一応言っておくのである。

尺稼ぎかよ。

まあ、これはつっこみになってるかな。

仁王門をくぐると本堂の前の三門が見えるのである。

くぐるとかよ。

お前はバカか。

バカで~す。

みんな逃げないでね。

三門からは本堂が見えるのである。

本堂には何やら仏像がお立ちである。

観音菩薩像である。

もちろん、いつものごとく大枚100円を喜捨して、口を極めてなむなむしたのは言うまでもないことである。

「口を極めて」は極めて用法がまちがってるかもしれないのであるがめんどくせーので直さないのである。

庫裡の門である。

扁額が古くて門の名称は定かでないのである。

庫裡の玄関である。

お寺に用事のある人はここから大きな声でこんにちはするわけである。

あたしは特に用事がないのでこんにちはは差し控えておごそかに合掌してなむなむしたのである。

お寺さんに来たらどこでもなむなむしておけば差し障りがないのである。

お寺でアーメンだのソーメンだのラーメンだのというと怒られるが、なむなむして怒る人はいないのである。

これなんか役に立つのかね。

象気功は何の役にも立たない気功法である。

えばるな。

境内の中ほどにある弁財天である。

ダンサーとして、また令和最大のヒット作「ぺちぺちくん」を生んだ漫画家として、芸事の神様弁財天をなむなむすることは重要なあれこれである。

誰がダンサーで漫画家だ。

言わしてよ~。

弁財天に行く弁天橋である。

実にわかりやすいネーミングである。

これが梵天橋だったら「ちがうじゃん」と言われてしまうのである。

ちなみに梵天はテロで爆破されたことでも有名なタイのエラワン・プームに祀ってあるヒンドゥーの神のブラフマーである。

もちろんどーでもいい話である。

じゃあ、するなよ。

弁天橋を渡ると弁財天の祠である。

今後の芸事のいやさかを祈り、気合を入れて「オンサラスバテイエイソワカーッ」と三度なむなむしたのは言うまでもないことである。

これを「オンソラソバテイエイソワカ」と唱えても良いのは言うまでもないことである。

いずれにしても真言はサンスクリットをカタカナにしたものであるので、神様本人には「日本人のアホがカタコトでなにゆーてるのかわからん」てなことであるから、なんでもいいのである。

まあ、余談であるが、いつだったか、高尾山の駐車場で白人の奥さんからカタコトの日本語で話しかけられたのであるが、まったく何をゆーてるのかわからなかったのである。

「いんぐりっしゅぷりーず」と言ったら大喜びでぺらぺらぺらとわかりやすい英語で話し出して、「バッテリーがあがったのでケーブルを貸してほしい」ということだったのである。

つまり、逆に言えばあたしらのサンスクリットはこの白人の奥さんの日本語である。

どんなえらい坊さんの読む真言もこの白人の奥さんのまったく何をゆーてるのかわからん日本語である。

神様だって「何ゆーてんねんこいつ」である。

だからなんでもてきとーに拝んどけ拝んどけである。

象気功は身も蓋もないが、当たり前のことしか言わないのである。

同じく境内にある大黒天のお堂である。

全国の金の亡者垂涎の象気功金運チャクラ覚醒講座の中心をなす財福を司ると言い張る神様である。

神様には何ゆーてるのかさっぱりわからん「オンマカキャラヤソワカ」の真言も勇ましく、誰もいないので大声で多めになむなむしていたら、近くにカップルがいて、このあたしを怪しいやつを見る顔つきで逃げて行ったのである。

鐘楼である。

もちろん勝手に鐘を撞くと怒られるので、撞く代わりに合掌してなむなむしたのは言うまでもないことである。

意味ねーじゃんと思うであろうが、南無は仏法僧をよりどころとする三帰依を宣言するということであるので、あたしは我を捨てこの鐘楼に帰依したわけである。

何を言ってるのかまったく不明であるが、氣で脳が壊れて以来こんな調子である。

キ印を宣言してどーすんだよ。

誰がキ印だ。

ああ、あたしだ。

もうやめろ。

お寺の鐘も鳴らずカラスも鳴かないが帰るのである。

内容がないよう等の苦情はいっさい受け付けません。

2021年1月3日日曜日

身延山久遠寺初詣(2021年元日)


象気功

霊氣神氣を受けて新年を寿ぐ行事といえばなんといっても初詣である。

正月の神社仏閣はめでたい氣が溢れ、氣の亡者のあたしとしてはこの世の極楽である。

例年は我が家が方丈の末裔の落ち武者からの由緒正しい百姓であることから、恒例の氣の行事として鎌倉八幡宮に泊りがけで詣でるのが父祖代々の習わしであるが、今年は新型コロナ禍の例に漏れず不要不急のあれこれで自粛取り止めとなったのである。

それでも自他共に認める世界最強の氣の泰山北斗のあたしとしては初詣に行かねば日本男児としてのメンツが立たないしあそこも立たないのである。

あそこってどこ?

知りませんし、知ってても言えません。

つーことで、はるばる東京から山梨県にある日蓮宗総本山身延山久遠寺まで日帰りで南無妙法蓮華経の氣を受けに馳せ参じたのである。

なんでそこまで氣にこだわるのかあたしにもわからんが、そこはそれそのように神のみ心のままになるようになるということである。

いつものごとく、なに言ってるのかいまひとつ判然としないが、この世は氣の波動で成り立っているわけであるので、とにもかくにも氣の集積所である神社仏閣へ行かないことには霊能気功師としてのお役目が損なわれるのである。

益々、なにを言ってるのか自分でも分からんわけであるが、久遠寺境内では日蓮宗新聞公式キャラクターの「こぞうくん」と坊さんが大活躍で、初詣に来た参拝客に記念撮影のサービスである。

こぞうくんのおかげで境内の氣は益々寿ぎ、日本の未来は明るく照らし出されたことは間違いないが、たいしたことはないかもしれないのである。

それ、言わんでもいいだろ。

氣よりも感染予防である。

氣なんかコロナにはなんの役にもたたないのである。

コロナを予防するにはマスクと手指消毒と、小池百合子大僧正ご推奨の「三密を防ぐ」ことが寛容である。

蓮華経のご利益よりも三密のご利益である。

三密と言っても真言密教とはなんの関連もないのは言うまでもないことである。

もちろん密教の修行よりも「三密の行」がコロナには必須であるのも言うまでもないことである。

日蓮宗の総本山に来て真言密教もないもんであるが、まあ、そんなこんなである。

どんなだよ。

身延山名物といえばこの参道の287段の急峻な石段登りの修行であるが、本日は正月の混雑対策のためなのか、境内にほど近いロープウエイの駐車場まで無理やり誘導されてしまったので残念ながら石段修行はノンノンである。

頼むからそのノンノンはやめて。

駐車場に付いたら、マスクを顎の下にしてるアホのおばさん係員にチラシを渡され「よかったら、ロープウエイにも乗って下さい」と大声で飛沫を飛ばしながらさらにアホなことを言われたのである。

「このコロナ禍真っ最中の初詣で誰が三密の代表のロープウエイなんかに乗るかアホ!」と怒鳴ろうと思ったが、大声を出すと飛沫が飛ぶので控えたのは言うまでもないことである。

それにしても百合子ちゃん会見の「正月はステイホーム」の懇願もむなしく駐車場は東京を始めとして県外あちこちからの浮かれた初詣客で満杯である。

まったくこいつらはろくなもんじゃないのである。

ううう、あたしもだった。


深く反省をしたふりをしながら、駐車場の奥に人が行くので、なんだろうか?と見たら、境内まで登るエレベーターである。

反省したふりかよ。

こんな狭い箱に見ず知らずの奴らと三密丸出しで乗ってるこいつらはどのぐらい低知能なのかと思ったが、まあ、誰もがダンサーのあたしみたいに足腰が丈夫というわけではないわけである。

誰がダンサーだ。

つっこみがうるさい。

高齢その他いろいろな事情で坂道を上がるのも苦になる人もいるだろうからしょーがなしょーがないと納得しようとしたが、「なら、こんな時期の初詣なんかやめとけーっ」と怒鳴ろうとしたがやはり飛沫が飛ぶので控えたのは言うまでもないことでである。


駐車場から結構な坂道をえっちらおっちら登る途中にある「琥珀明寿大菩薩」である。

仏教の尊格であるのにどーゆーわけか、ご丁寧に鳥居も立ってるのである。

鳥居があろうがなかろうが、象気功名物「なんでもいいから拝んどけ拝んどけ」の合言葉通りに張り切ってあらんかぎり大声でなむなむしようとしたが時節柄小さな声でなむなむしたのである。

このように苦労を厭わなければありがたーい菩薩様になむなむできるのである。

まあ、菩薩というのは悟りを求める修行中の僧あるいは衆生、つまりはあたしらのことであるが、「なーんだアホのことかよ」なんてなめてはいかんのである。

この世はすべてが同一であり、菩薩は仏陀の化身であるぞよ。

うう、つまらん、のりおよしおのネタみたいにつまらん。

こらっ。

この貧相なカップコーヒーは、談合坂SAでいつも飲む、「世界初一杯毎に豆を挽くミル挽き珈琲」と言い張る自販機のキリマンジャロコーヒーである。

これが200円なのに芳醇な香りと苦味のないまろやかなテイストで、ううむ、自分ながら死にそうになるほど情けない文章であるが、とにかく美味いのである。

談合坂にも某すたばはあるが、あたしは某すたばの香りもなくて苦いだけのコーヒーが大っきらいである。

それなのになんであんなに人気があるかというと、コーヒーてなものは味も香りもどーでもよくて、つまりはそれもこれも宣伝によるイメージあるいはファッションあるいはパ~の思い込みであるわけである。

正月から天下の某すたばもぼろくそである。

どこが悟りを求めて修行中の菩薩なのかわからんが、まあ、どーでもいいやね。

象気功の扇、いや奥義のひとつは「どーでもいい」である。

何をどうやろうがやらなかろうが、どーせなるようにしかならんのであるから、どーでもいいわけである。

まあ、これは死と隣合わせの激烈な修行の結果に掴んだあたしの実感であるので、しろーとの皆さんに理解しろということ自体が無謀であるが、まあ、それもこれもどーでもいいのである。

誰が死と隣り合わせだ。

でも某すたばのコーヒーは大っきらいである。

つまりは、個人の好みだからしょーがないじゃんということである。

ここでも百合子ちゃんの「正月はステイホーム」もむなしく、東京からのバカどもの車がぎょーさんやがな。

だーれも百合子のゆーことなんか聞いとらんがな。

しまった、あたしもだ。

双葉サービスエリア下りで昼飯に食った「富士山丼」である。

とんかつ定食を丼もんにして、安直に「富士山」を付けたという実にわかりやすいネーミングであるが、この荒っぽいお料理が意外にグーである。

ところで、エド・はるみって生きてるの?

よしなさい。