2013年4月30日火曜日

伊勢神宮(内宮)風日祈宮



風日祈宮(かざひのみのみや)は三重県伊勢市宇治館町にある伊勢神宮内宮(皇大神宮)の境内別宮であるのである。

祭神は外宮(豊受大神宮)別宮の風宮と同じ級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しなとべのみこと)で、内宮神楽殿前から南方へ向かう参道にある風日祈宮橋(かざひのみのみやばし)で五十鈴川支流の島路川を渡った先に風日祈宮があるのである。

風の神であることから、航海安全の神ともされ、また、「風」と同音・同根であることから神さま関係お得意のこじつけご利益で「風邪」を治す神ともされるのであるが、そんなことをいうと神罰が当たるので、神使をもってなりわいとするあたしのようなりっぱなぱー以外は言ったりしてはいけませんつーことをご忠告申し上げておくのである。

風日祈宮御橋は長さ45.6m、幅4.6mで、内宮前の宇治橋を小さくしたような橋であるのであるが、そーいえばそーかねとゆーことであるのである。

橋が最初にかけられたのは室町時代の1498年(明応7年)で、南端の擬宝珠(ぎぼし)に「太神宮風宮 五十鈴川御橋明応七年戌午本願観阿弥 敬白」と刻まれているわけであるが、古くはこの橋がかかる川が五十鈴川本流とされており、この橋を五十鈴川橋と呼んだのであるつーことであるのであるが、マニア以外にはどーでもいいとこかもしれないのである。

もっとも長い川が河川の本流と定義され、島路川と呼ばれてからは風日祈宮橋と呼ぶのが一般的となったのであるつーことであるのであるうううめんどさくなってきたのであるつーあたしの神のご意見であるつーことであるのであるがだいたいがあたしの神はものごとにすぐあきるのできっとあきる野市の出身かもしれないのであるってだじゃれかよといつもノリツッコミをかましておくのであるが見捨てないでほしいのである。

別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされると定番のの解説もかろやかに、内宮の別宮は風日祈宮のほか境内に荒祭宮(あらまつりのみや)1宮、境外に月讀宮(つきよみのみや)、瀧原宮(たきはらのみや)、伊雑宮(いざわのみや)、倭姫宮(やまとひめのみや)ほか4宮があるが、風宮が別宮となったのは1293年(正応6年)で、1923年(大正12年)創建の倭姫宮の次に新しく、順位は内宮別宮10社中9位とされるのであるがやる気がぜんぜんないのでそのまんまのベタであるのである。。

古くは現在の末社格の風神社であったが、1281年(弘安4年)の元寇の時に神風を起こし日本を守ったとして別宮に昇格したのであるつーことであるもうやめたいお願いだれか。

祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命と級長戸辺命(しなつひこのみこと、しなとべのみこと)であるつーことでまだ続くのかよおいおい。

本来は農耕に適した風雨をもたらす神であったが、元寇以降は日本の国難に際して日本を救う祈願の対象となったのであるが、さらにやる気もなんにもないのでベタベタであるのである。

あまりにも古すぎるので、風日祈宮の由緒は定かではないのであるが、804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』の「風神社」(ふうじんのやしろ)が初見であるのであるが初出と言ってもいいし初登場と言ってもいいのであるが、風神社は現在の末社に相当し、現在の摂社以下の扱いであったのであるのである。

かの吾妻鏡に1187年(文治3年)に源頼朝が神宮に8頭の神馬を奉納したと記されているのであるのであるが、あたしがもちろんあたしが見たわけではないので確約はできないのである。

その時の宮社の風が風神社とされるが、外宮権禰宜の度会光生が取り次いでいるので外宮の風社(現在の風宮)の可能性があるのであるつーことであるが、なにしろ可能性であるのでこれも確約はできないわけであるが、これ根気よくここまで読んた人はえらいっとお褒めのお言葉を奏上しておくのであるっておおきなお世話かもしれないのであるあるあるあるあるあああ壊れた壊れた。

風神社は末社相当であったが、祭神が農耕に都合のよい風雨をもたらす神であることから風日祈祭が行なわれ、神嘗祭では懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視されたのであるのであるが責任者を呼べ責任者をいったいいつ終わるんだよ忍耐にも限度があるぞなんていい大人が駄々をこねちゃいけませんやね。

1281年(弘安4年)の元寇では朝廷より二条為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、風神社と風社で祈祷を行なったつーことであるのであるが、もうやめるいいや止めるなだれがなんといってももうやめるぞあたしゃ。

といーながらさらにつづくのかよしかし、日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利として1293年(正応6年)に風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮と風宮となったのであるってこったいどうだいこれで。

江戸時代末期に欧米諸国が日本を訪れるようになり、1863年(文久3年)5月に朝廷は風日祈宮と風宮で攘夷の祈願を15日間行なったのであるがだからなんなのそれでなんかおもろいのかね笑いがとれるのかねええ?まだ続くの?。

毎年5月14日と8月4日に風雨の順調と五穀の豊穣を祈る風日祈祭が行なわれるのであるがもうこーなるとさすがにいったいどこで撤収すればいいのかわからんがね。

1975年に風日祈宮ほーか事件があったのであるつーことであるが、あれこれを守護する神のくせに本人がほーかなんかされてどーすんだなんて言われるともともこもないので、食いつかないでスルーするのであるつーことで終了である。

疲労困憊で霊気もへったくれもないのである。

ああ、疲れた。

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2013年4月29日月曜日

伊勢神宮(内宮)荒祭宮



荒祭宮(あらまつりのみや)は三重県伊勢市宇治館町にある伊勢神宮内宮(皇大神宮)の境内別宮であるのである。

祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)であるのである。

祭神の天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)はその名の通り天照大神の荒魂で、804年(延暦23年)の「皇太神宮儀式帳」において、「荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 神宮の荒御魂宮と称う」とあり、また、927年(延長5年)成立の「延喜式」において、「荒祭宮一座 大神の荒魂」と記載されているつーことであるが、マニアック過ぎていったいなんのことなのか意味がさっぱりわからんのであるが、もしかしたら神社神道マニアの皆さんには興味津々のことであるかもしれないのであるので、さらに荒御魂について解説してしまうのである。

神道における神の霊魂の概念には、荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま・にぎたま、にきみたま・にぎみたま)という二つの側面のがあるのである。

荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きであるのである。

つまり神の祟りは荒魂の表れである。

それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面であるのである。

つまり神の加護は和魂の表れであるのである。

荒祭宮は内宮正宮北方にあるのであるが、別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされるのである。

荒祭宮は「荒魂を祭る宮」の意味とするのが定説であるのである。

天照大御神の荒御魂である天照大神荒魂を祀る内宮の別宮は境外に瀧原竝宮(たきはらならびのみや)があるが、荒祭宮は内宮に月讀宮、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮、瀧原宮、瀧原竝宮、伊雑宮、風日祈宮、倭姫宮と、あわせて10ある別宮の中で第1位とされるのである。

そんなこんなで、荒祭宮は他の別宮よりも社殿が大きく、神御衣祭(かんみそさい)は外宮(豊受大神宮)では行なわないが、内宮正宮と荒祭宮では毎年5月と10月に行なわれるつーことあるのであるが、あたしゃ神御衣祭に参加する予定もないのでどーでのいいのであるがこれも一応言っとくのである。

参拝順序としては内宮正宮参拝後に参拝するのが正しいとされ、正宮石垣の角の籾種石(もみだねいし)を右手に見ながら右へ進み、稲を納める御稲御倉(みしねのみくら)、古い神宝を納める下幣殿(げへいでん)を左手に見ながら進んだ先の石段を一度降り、次の石段を上った先に荒祭宮があるのであるが、そんなこたあわざわざ説明しなくても動画を見れば一目瞭然であるつーことも一応言っとくのである。

この時に降りる石段には四つに割れ「天」の字のように見える石があるのであるが、この石は「踏まぬ石」と呼ばれ、避けて通らなければならないとされるのであるが、あたしゃそんこたあぜんぜん知らなかったのでおもいっきり踏んづけたかもしれないのである。

言い伝えでは、踏まぬ石は天から降って来てなホラを吹いてるのであるが、どーだかこーだか定かではないと当たり前のこともおっしゃてるのである。

荒祭宮に参拝できない場合のため、籾種石の近くに石畳の荒祭宮遥拝所てな親切な場所が設けられているのであるが、もちろんそんなこたあ知らなかったのでどこだかわからんかたのである。

あたしは物見遊山の観光では下調べはいっさいせずに行き当たりばったりの出たとこ勝負であるので、なにがなんがかわからんうちに粛々として日程が終了するのが常であるのである。

人生も観光も行き当たりばったりであるのが、象源流であるのである。

下調べをしたら面白いものも面白くなくなるのである。

ハプニングの連続を楽しむのが人生つーもんであるのである。

言いたい放題であるのである。

籾種石は、天明年間の第51回内宮式年遷宮(1781年-1789年)に、楠部郷(現在の伊勢市楠部町)の住民が五十鈴川上流から苦労して運び奉納した石と伝えられているのである。

この時、農作業よりも石の運搬を優先したため食料不足に陥り、籾を食べるしかなくなったことから籾種石と名の由来となったつーことであるが、ここでの五十鈴川は、現在の五十鈴川本流ではなく現在の島路川であろうてなことであるのであるがあろうであるので定かではないのかも知れないつーこともひとこと付け加えておくのであるのであるがどーでもいいからやめろといわれても指が止まらないのであるが神のお告げの御筆先であるのであたしの責任ではないのであるし文責も神にあるのであたしはいっさい責任をとらないのであしからずご了承いただきたいのであるうううびょーきかなこれは絶対にどこかおかしいのである。

御稲御倉は御稲御倉神を祀る内宮所管社で、神宮神田で収穫された稲を納める倉でもあり、社殿は高床式倉庫に近い神明造で、社殿に垣がないため神明造の特徴を観察することができるのであるが、あたしは神の波動には興味があっても建築法にはたいして興味がないので観察はしなかったのであーだこーだ言えた義理ではないのである。

皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である。祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行するつーことあるのであるが、いくらなんでも興味もなんにもないことをこれ以上解説するのはご勘弁いただきたいのであるてなことで本日のご挨拶に代えさせていただきたいのである。

さて、本日のご挨拶も滞りなくすませたところで、荒祭宮の剛気な波動をいいかげんな心がけのままうっかり受けるとうっかりなことにもなりかねないので、祟り神であるという側面をご了解の上、動画参拝の際は鎮魂魂振に勤めていただきたいのは無論のことであるのである、

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2013年4月27日土曜日

伊勢神宮(内宮)五十鈴川御手洗場



五十鈴川(いすずがわ)は、三重県伊勢市を流れる宮川水系の一級河川で神路山(かみじやま)を源流とし、支流島路川と合流し、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の西端を流れており、古くから清流とされ、和歌にも多く歌われた川であるのである。

倭姫命(やまとひめのみこと)が五十鈴川で御裳のすその汚れを濯いだという伝説があるのである。

倭姫命(やまとひめのみこと。生薨年不明)は、記紀に伝える古墳時代以前の皇族で、第11代垂仁天皇の第4皇女であるのである。

ちなみに薨(こう)とは、貴人の死、特に律令制では、親王および三位以上の人の死をいうのである。

さらにちなみに薨去(こうきょ)は崩御(ほうぎょ)とざっくりと同意であるのである。

倭姫命の母は皇后日葉酢媛命で、倭姫命は伊勢の地に天照大神を祀った皇女とされ、これが現在の伊勢神宮斎宮の直接の起源であるとも伝えられているのである。

その五十鈴川にかかる伊勢神宮(内宮)宇治橋から正宮までの参道の途中に五十鈴川御手洗場(いすずがわみたらし)が作られているのである。

御手洗場と書いて「みたらし」と読まないと伊勢神宮の通とはいえないのであるとゆーことをひとこと付け加えておくのであるが、そーでないのとおっちょこちょいは脱字と勘違いするのである。

この御手洗場では、かつては手洗いだけではなく、口濯ぎまで行われたのである。

現在でも伊勢神宮の公式ウェブサイトで「神聖な川、清浄な川として知られる五十鈴川の水で心身ともに清めてから参宮しましょう」「天気のいい日は五十鈴川「御手洗場」で、口と手を清めることをお勧めしますと記載され、推奨されているのであるのであるが、衛生上の問題もあるので、某保健所公認の食品衛生責任者としてのあたしからご推奨もうしあげられないのである。

食品衛生責任者(しょくひんえいせいせきにんしゃ)とは、食品衛生責任者養成講習を受講した者などで、食品衛生責任者として選任されている者であるのである。

あたしは元珈琲専門店マスターとしてのお立場上、某保健所に出向き、あくびをしながらも講習を貫徹して、衛生については象師匠に聞けとゆーぐらいの、押しも押されもしない盤石の食品衛生責任者であるのである。

この御手洗場の前に手水舎があるので、口はそこで濯ぐことをご推奨もうしあげて一服の清涼剤としてのご意見といたしたいのである。

まあ、そんなこんなで、五十鈴川御手洗場でお手々を洗って、神さまに失礼のないように身も心も整えてから謁見するのが伊勢神宮マニアの本分であるが、まあ、参拝客観光客の皆さんはどなたもこの御手洗場の前にある手水舎で手を洗って口を漱いでおられるので、さらにこの御手洗場で手を洗って口を濯ぐかとゆーと、そーでもないので、まあ、あたしはこの御手洗場に折目高に礼をつくして正宮に向かって一目散に歩を進めたのは多言を要しないことであるのである。

霊力星3つであるのである。

何いってんでしょうか。

どんどんなんだかわからなくなるのである。

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2013年4月25日木曜日

伊勢神宮(内宮)宇治橋



宇治橋(うじばし)は、三重県伊勢市にある伊勢神宮(内宮・皇大神宮)の参道口にある高欄付き木造の和橋(わきょう)で、別名を御裳濯橋(みもすそばし)つーのであるのである。

橋梁工学の専門家である大阪市都市工学情報センター理事長の松村博さんがそのご著書で言い張る日本百名橋(にほんひゃくめいきょう)のひとつであるつーことである。

まあ、日本三大橋とかなら把握できるのであるが、百って、しかし、多すぎるだろなんてツッコミをいれてはいけませんのである。

日本百名山だの日本百名城だの日本百名道だの、はては日本百名居酒屋てなものまであって、日本人はとにかく百なんとかが好きであるのである。

その百なんとかをぐるぐる回ってお楽しみなにる暇人いや失礼、ご酔狂なご趣味の皆さんもたーくさんおられるので、それをあーだのこーだのと言うのは的外れであるのであるが、どんどん着地点も帰り道も見えなくなって行くので、どーすんだよこれは。

宇治橋は長さ101.8m、幅8.42mで、橋の両側に神明鳥居があるのである。

神明鳥居とは鳥居の形式のひとつで、2本の円柱の上に円柱状の笠木(かさぎ)をのせ、下に貫(ぬき)を入れた直線的な鳥居のことで、神明造りの神社に多く用いられるのである。

神明神社(しんめいじんじゃ)とは、天照大神を主祭神とし、この伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社であるのである。

つまり、神明神社の元締めである伊勢神宮の神域をわける川である五十鈴川にかかっているのが宇治橋で、その両側に神明鳥居があるわけである。

五十鈴川に架けられたこの橋は、だいたい100メートルであるので100メートル競争をするには最適であるのであるが、まあ、たいしてネタが広がりそうもないのでやめるのである。

神宮の定義では宇治橋を渡った先は神域(神が宿るとされる聖域)ではなく神苑(直接神社の宗教的関係ある本殿や摂末社、社務所あるいはお旅所等がある地域と、これに接続する苑地や林地の一帯)であるが、崇敬者・参拝者・伊勢神宮マニアの間では、通常、神域として扱うことから、一般に「俗界と聖界の境にある聖俗を分ける橋」とされるのである。

明治以降は神宮式年遷宮にあわせて架け替えられていたのであるが、いろいろな経緯を経て現在は20年ごとの神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになったのあるのである。

橋の両側の神明鳥居の高さは7.44mで、外側(外)の鳥居は、外宮古殿の棟持柱(むなもちばしら)の古材から、内側(内)は内宮古殿の棟持柱の古材から作られる昨今のエコの時代にも適応したリサイクル鳥居でもあるのである。

明治以降、これらの鳥居が建て替えられると外の鳥居は三重県桑名市桑名宿の七里の渡しで、内の鳥居は鈴鹿峠の麓にある三重県亀山市関町関宿の関の東の追分で、それぞれ神宮遙拝用の鳥居に20年間使用されているという地球資源を限りなく無駄にしない再リサイクル鳥居でもあるつーことであるので、さすがは神の中の神である天照大御神を主祭神とするだけあって、世界の環境対策に古来より余念がなかったわけである。

宇治橋は五十鈴川に対してほぼ直角に架けられており、西岸から東岸を見た場合は約30度南を向いているのであるが、そんなこまかいこたあ、渡るあたしらにはわからないので、どーでもいいのであるが、一応書いておくのである、こらこらやめなさいって、ううう、誰か助けてくれ。

宇治橋の東側には島路山(しまじやま)があり、日の出は島路山からとなり、このため日の出が南寄りからとなる冬至を中心とする約2か月の間は宇治橋の鳥居の間からの日の出となるつーことであるので、お好きな方は冬至の時期に伊勢神宮に行って「ほほう、なるほど、ほんとに鳥居の間からご来光が見える、ああ、ありがたいありがたい」と感激していただきたいわけである。

まあ、撮れ高OKのカンペがとっくに出てるのに、ぐだぐだとどーでもいいことまで打ち綴って、ひとりよがりの霊能参拝おつむはぴーひゃららであるのである。

そのぴーひゃららをご堪能した方はさらに霊能修行を遂行するために、俗界のあれやこれやの汚れ穢れを五十鈴川に流して宇治橋を渡ってその先にある聖界の深遠を拝謁して頂きたい。

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2013年4月22日月曜日

伊勢神宮(内宮)正宮



ううむ、ネタが多すぎて、並べきれんな。

霊気神気を受ける動画2を作らんといけんかね。

つーことで、伊勢神宮(内宮)・皇大神宮の正宮であるのである。

そら、なんつっても、伊勢神宮本丸は内宮正宮であるのである。

まあ、異論を唱える人もおられるとは思うが、いってみれば、内宮である皇大神宮は旦那で、外宮である豊受大神宮はおかみさんであるのである。

お伊勢さんを語るには、やっぱり一家の主である旦那を取材しないことに始まらないわけである。

つーことで、象気功霊場取材班は照明さんも音声さんも兼ねたデジカメを構えて、正宮の周囲に参集する八百万の神々を網羅してその霊気神気を余すところなくお茶の間におとどけするのである。

まあ、ネットであるのでお茶の間かどーかはなんとも言えないのであるが、皇大神宮(こうたいじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社で伊勢の神宮の二つの正宮のうちのひとつであるのである。

一般には内宮(ないくう)と呼ばれ、式内社(大社)であるのである。

別宮(べつぐう)として、境内に荒祭宮と風日祈宮、境外に月讀宮、瀧原宮と伊雑宮のほか、境内・境外に27社・33座の摂社、16社・16座の末社、30社・30座の所管社を有するのであるのである。

主祭神は天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ・天照大御神・あまてらすおおみかみ)で、三種の神器のひとつである八咫鏡(やたのかがみ)を御神体とするのであるのである。

天照大御神は、よほどの迷妄無知蒙昧の人でないかぎりどなたもご存知の通り神話に登場する太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)の一柱とされる神で、日本民族の総氏神とされている、まあ、いわば日本一のこの上なくえらーい神さまであるのである。

相殿神として、岩戸隠れの際に岩戸から顔をのぞかせた日本一のこの上なくえらーい神さまである天照大御神を引きずり出したという乱暴無体な男っぷりの天手力男神 (あめのたぢからおのかみ)と、天照大御神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ万幡豊秋津姫命 (よろづはたとよあきつひめのみこと)を祀るのである。

まあ、複数の神社を参拝する場合、格の高い神社から低い神社の順が一般的であるが、伊勢神宮の通常の神事は外宮、内宮の順で行うのである。

これを外宮先祭と呼び、参拝も外宮、内宮の順で行なうのが正しいといわれるのである。

ただし式年遷宮の遷御は皇大神宮、豊受大神宮の順であり、奉幣は豊受大神宮、皇大神宮の順であるのでややこしいっちゃややこしいのであるが、古来よりの慣例であるので一般霊能者のあたしがどーのこーの口を差し挟むことではないのである。

あまりの神々し示唆にひれ伏して、神使をなりわいとする象師匠といえども石段下からの撮影であるのであるが、石段前の立て札に「撮影は石段の下で」と書いてあることとまったく無縁ではないのである。

さすがにその冷気神気の波動神降ろしは鳥居と拝殿の周囲に神気波動のブロッケン現象を伴ってあたしの身体を押し戻すのである。

それを受けることができるとすれば、日頃の精進潔斎によるたまわり物であるのは言わずもがなのことであるのであるので、さらに高みに消化するために寝食を忘れ修祓の日々に専念することを祈念してやまないのである。

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2013年4月20日土曜日

伊勢神宮(内宮)参道



三重県伊勢市にある神社本庁の本宗である伊勢神宮には、太陽を神格化した天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(こうたいじんぐう)と、衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の二つの正宮(しょうぐう)があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれるのである。

その内宮の参道を宇治橋から正宮まであれこれふるべゆらゆらとふるべと鎮魂魂振しながら巡礼行脚したのである。

神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考えるので、これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが鎮魂(ちんこん・たましずめ)であるわけである。

「たまふり」はその繋ぎ止めた魂を外から揺すって活力を与えることである。

象気功でも解説してる通り、人間の活力には身体の活力はもとより、霊体の活力増強のためにも「揺する」ことが必須であるわけである。

何ごとも揺すっとけ揺すっとけであることをよーく理解するとこの世浮き世はお気楽極楽あら素敵てなことになるのである。

え?ならない?

そら、あーた、信心が甚だしく足りないのであるから、神棚祭壇に大御饌を備えて大祓祝詞を毎日3時間これでもかと修祓しなさいね。

え?バカバカしくてそんなことできない?

そらそうだ。

そらそうなのかよ。

きりがないので、まあ、とにかく神道の元締めの神社本庁の本宗であるから、慣例作法に従い先に参拝した外宮も広いのであるが、内宮はこれまた、それに数倍する広さで、行けども行けども行けども行けども、なーかなか正宮まで辿り着かないのである。

まあ、それもこれも、健康祈願のご利益を歩くことで成就させようてな配慮があるのかないのか、毎日参拝すれば健康になること請け合いであるが、あたしら東京もんは毎日はとても毎日は来られませんので、一生に数回の健康成就ご利益であるのである。

まあ、境内参道には数知れないご神木が立ち並び、そのすがすがしさだけでも精神的疲労はこよなく払拭されて、あたしの心も体も軽々とこの世あの世の裏側中陰を彷徨うのである。

ううむ、この世あの世の裏側中陰を彷徨うって、それじゃ浮遊霊じゃありませんか。

てな冗談はここまでとして、おいおい、ここまでが冗談って、話はいったいどこへ行くのかね。

ううむ、あまいな、こんなことで笑いが取れりゃ誰でもコメディアンになれるのである。

コメディアンかよ。

霊能コメディアンつー新しいジャンルであるのである。

霊能であるから、生きてる人もすっかりお亡くなりなってる人もひっくるめて笑わせてなんぼであるのである。

まあ、生きてる人の笑いのつぼはだいたいわかるのであるが、これがね、お亡くなりになっちまった人の笑いのつぼてなものは、さすがに古今未曾有の大霊能者のあたしもお亡くなりになってみないことには定かではないのである。

それを取り締まる神さまの笑いのつぼは、神のお告げを宣布する神使とはいえ、神ならぬ身のあたしにさらにわかるわけもないので、まあ、当たれば幸いはずれて当たり前の下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる方式で、ギャグボケひとりツッコミ諧謔駄洒落の連打連発であるが、しまいには神罰仏罰が当たって悲惨な結末迎えること必定であるかもしれないのであるが、義理と人情の霊能伊達男としての華の散らせ方を世間様に知らしめて娑婆此岸浮き世の思い出としたいわけである。

ううむ、意味が分からない前に読めないという人は、大周天で脳の血行を良くしてさらに霊界通信神の声お告げ傍受に専念することが肝要であるのである。

つーことで、霊界通信神の声お告げ傍受には身体御霊をその波動の中に置いて振動を共鳴させることが必要であるので、そのためにはあなたのお粗末極まりない霊能力を総動員して動画の波動に魂体を形成するアートマ体モナド体を浸していただきたい。

ううむ、さすがに神のみ言葉だけに右から左から上から下から後ろから前からどうぞつーぐらい自由自在神出鬼没縦横無尽であるのである。

自由自在神出鬼没縦横無尽とゆーよりは、語彙が混濁してわけわからんがね。

末筆にてまことに恐縮ではあるが、アートマ体モナド体が揺り動かされて神の声が聞こえた方は、家族にご相談の上、おつむ専門の病院に即行していただきたいのはいうまでもないことである。

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2013年4月19日金曜日

伊勢神宮(外宮)土宮



土宮(つちのみや)は三重県伊勢市豊川町にある外宮(豊受大神宮)の境内別宮(べつぐう)である。

土宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓にある外宮の別宮である。

別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされるのであるが、伊勢神宮にある14の別宮はどれもこれも正宮につぎえらいわけである。

外宮の別宮は土宮のほか、境内に多賀宮(たかのみや)と風宮(かぜのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるのであるがううむ、これはいいか、いやそうもいかんだろうね、まあ、いい。

でね、土宮は多賀宮に次いで古く、多賀宮・月夜見宮に次ぎ3位であるからけっこうえらい神さまであるのである。

正宮前の池の横の亀石を渡った先の石段の左に風宮が、右に土宮があるのである。

亀石つーのは高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられているパワーストーンで、よーく見ると亀に見える石であるのである。

まあ、べつに伊勢神宮サイドではパワーストーンであるなんておっしゃられていないのであるが、まあ、そこはそれ、一般庶民のお楽しみとして三ツ石とともにおねーちゃん達が「きゃー、これよこれよ」つーことで写真をお撮りになっているのである。

土宮の祭神は外宮所在地の地主の神である大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)とされる。

伊勢神道の創設者である度会行忠さんが1285年(弘安8年)に記した「神名秘書」では、山田原地主の大年神、字迦魂神、土御祖神の土宮3座であったのであるが、ううむ、しかし、どうも真剣になんのことか考えられないのはなんでだろうね、あたしゃ興味がぜんぜんないつーことかね、これじゃ読んでる方はもっと興味がないかもしれないのであるが、しかし、なんつーいいかげんなアレだね。

「類聚神祇本源」によれば、「長徳検録」に外宮所管の田社32前の1座の土御祖社と記された。

「田社」は現在の末社に相当し、現在の摂社以下の扱いであった。

1128年(大治3年)、土御祖社は宮川の外宮禰宜の申請が朝廷に認められ、別宮に昇格し土宮となった。

そのころ宮川上流の開発が進み、度重なる宮川の氾濫に悩まされた外宮禰宜が、地主の神を昇格させ洪水防護の祈念の効果を高めようと考えたことによるのである。

しかし、これ、人間が神さまの神格を昇格させるつーのもおこがましい限りの話であるが、あなたが今この瞬間に生きてることとそのうち必ずお亡くなりになること以外は何ごともすべからく幻想であるんのでお楽しみのひとつであるのである。

なにしろ第3位であるので、皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、祈年、月次、神嘗(かんなめ)、新嘗(にいなめ)の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があるのである。

帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌(しんせん・神社や神棚に供える供物)以外のものの総称であるのであるが、「延喜式」の祝詞の条には、幣帛の品目として布帛、衣服、武具、神酒、神饌などが記されているのであるので、広義は神饌も含まれるのであるが、さらに興味がないので、もう、このへんでやめてやめておとーちゃんなにすんの、ええかげんにしなさいっ、なんで?。

さて、土宮の神気の霊波動は心穏やかに平穏を醸成してあなたの魂を揺り動かす魂振り神事とはかくありなんという波動共鳴の威力を受けるには、日々の修祓で右脳を活性化してあなたの御霊を動画の波動の中にいざない、その振動を賞翫する意思を神に向けることが重要であるのである。

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2013年4月16日火曜日

伊勢神宮(外宮)風宮



三重県伊勢市豊川町にある伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の境内別宮・風宮(かぜのみや)である。

風宮の祭神は、内宮(皇大神宮)別宮の風日祈宮と同じ風雨を司る神とされる級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)である。

古くは農耕に適した風雨をもたらす神であり、現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社)であったが、1281年(弘安4年)の元寇の国難に際し神風を起こして日本を守ったとして別宮に昇格したのである。

風宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓に位置する外宮の別宮である。

外宮正宮前の池の横の多賀宮への参道にある高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられる亀石を渡った左側に風宮があるのである。

別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされ、外宮の別宮は風宮のほか境内に多賀宮(たかのみや)と土宮(つちのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるのであるが、風宮が別宮となったのは1293年(正応6年)と最後であり、4別宮の中では第4位とされるのである。

風宮の由緒に関しては、997年(長徳3年)の「長徳検録」に外宮所管の田社32前の4位の風社と記されたとの、度会家行さんによる「類聚神祇本源」での引用が最古であるつーことであるのであるが、なにしろ昔のことであるのでよくわからないつーことである。

「田社」は現在の末社に相当し、現在の摂社以下の扱いであり、風神社は末社相当であったが、祭神が生活の基本である農耕に都合のよい風雨を司る神であることから風日祈祭が行なわれ、五穀豊穣の感謝祭である神嘗祭(かんなめさい)においては懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視され尊重されるようになったのである。

前述の1281年(弘安4年)の元寇では朝廷より為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、内宮の風神社と外宮の風社で祈祷を行なったのである。

それが台風の時期であったためにそこに台風が通りかかって、当時はCNNのワールドウェザーてな天気予報もなかったので何も知らずに日本に押し寄せた元軍はえらいめにあって退却し、日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利として1293年(正応6年)に風神社と風社は、「あんたらはえらい!」つーことで別宮に昇格され、内宮・風日祈宮(かぜひのみや)と外宮・風宮(かぜのみや)となったのである。

江戸時代末期にいわゆる黒船来襲てなことで欧米諸国が日本を訪れるようになり、異人さんが怖いてなことでお困りになった朝廷は1863年(文久3年)5月に風日祈宮と風宮で攘夷の祈願を15日間行なったのであるが、残念ながら台風の時期ではなかったせいなのかどーなのか神風は吹かず、文明開化となり日本自体が欧米化してしまったのである。

1876年(明治9年)の伊勢暴動の際には、月夜見宮近隣の町が炎上し、宮への類焼が懸念されたことから、月夜見宮の神体が一時的に風宮へお引越しされたつーことであるが、だからなんだといわれても、あたしにもお答えしようがないのである。

毎年5月14日と8月4日に風雨の順調と五穀の豊穣を祈る風日祈祭が行なわれるので、興味のある人、あるいは家庭菜園などがご趣味のの人はいっしょに祈るといいかもしれないのであるが、もう飽きてきちゃったので本日の収録はこのへんで終わるのである。

なにしろ、神さまの中の神さま伊勢神宮であるので、14の別宮、109の摂社末社所管社から成り立っていて、盛り沢山すぎて、もうこれ、参拝しきれないのであるが、まあ、どれが重要でどれがどーでもいいてな問題でもないのでどれもこれもありがたいありがたいであるのである。

まあ、あたしは直接ご来駕申し上げて、その御利益をダイレクトに受領してしまうわけであるが、そのお裾分けつーことで象気功読者諸氏諸兄諸姉に動画から霊気神気の波動をお届けするわけである。

まあ、お気づきの方も少なからずおられると思うが、魂体の界層は嘗てない方向に浮動しており、正確にあなたの座標軸を調整してその方向に第三身体の波動を調律しないと取り残されてしまうのである。

その波動を調律するためにも、あなたの第三身体をこの動画の中に送り込み、霊波動の磁場の海に浸かることが肝要であるのである。

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2013年4月15日月曜日

伊勢神宮(外宮)多賀宮



多賀宮(たかのみや)は三重県伊勢市豊川町にある外宮(豊受大神宮)の境内別宮である。

多賀宮は豊受大神宮宮域内正宮南方の小丘である檜尾山(ひのきおやま)に鎮座し、主祭神として豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)を祀る豊受大神宮の第一別宮であるのである。

伊勢神宮の別宮(べつぐう)とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされるのである。

山頂にあるので高宮(たかのみや)であったのであるが、縁起のよい字を当て多賀宮(たかのみや)になったと考えられているのであるが、考えられているのであって、それがビンゴであるかとーかはあたしからはなんとも言えないのはゆーまでもないことであるのである。

神さまに対してビンゴがジャストミートかどうかはさらになんとも言えないのはさらにゆーまでもないことであるのであるが、多賀宮の権威に対して揶揄しているとゆーことではさらさらないのはさらさらにゆーまでもないことであるので、巫者としてのあたしのお役目を損なうものではないということをここに宣言してしまうのである。

ううむ、巫者ってなんだ?

さすがに神のお告げだけに知らん言葉がどんどん出てくるな。

巫者(ふしゃ)とは神がかりの状態で神託を告げる者つーよーなことであるのね。

ほほう、なるほど、つまりあたしみたいなおつむが大変お壊れになったぱーとゆーことか、あはははは、やかましいっ。

ひどい蛇足文であるのである。

蛇足文とゆー言葉さえあるのかどーかわからんのであるが、例によって指が勝手に動いてキーボードを叩いちゃったのでしょーがないのである。

つーことで、外宮の別宮は多賀宮のほか境内に土宮(つちのみや)と風宮(かぜのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるが、多賀宮がもっとも古く、外宮の4別宮のうち、「止由気宮儀式帳(804年)」と「延喜式神名帳」に記載されているのは多賀宮のみであるのであることからいっても、伊勢神宮でもっとも由緒格式の高い別宮であるとゆーことができるかもしれないとゆーことであるのである。

正宮前の池の横の亀石を過ぎ、土宮と風宮の間にある石段を98段登った丘の上に多賀宮があるのであるが、亀石は高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられているのであるので、亀というとなんとなく間抜けであるがパワーストーンの噂も高いあっぱれな石であるので、あだやおろそかにしてるとあなたもあたしもあらうふんになるのである。

うちの神さまはオチが見えなくなるとあらうふんまたはあらいやんでごまかすのである。

なにしろあたしが書いてるわけではないので、あたしに文句を言われても困るのであるが、ううう、さらにオチが見えなくなってしまったのである。

戯れ言はさておき、ご親切なことに、足腰が悪く丘の上に登れない参拝者のために、麓の池のほとりに多賀宮遥拝所が設けられているのであるが、あたしはもちろん足腰がものすごく強いので、カメラ片手に颯爽と急峻な98段の階段をスタスタと上がり、後ろ姿が艶姿のおねーさん方をどんどん追い抜いて、あっというまに拝殿前にたどり着いたのである。

なにしろスタスタであるのである。

ノタノタでもノタクタでもペタペタでもなくスタスタであるのである。

これはいるのかとゆーご指摘もごもっともであるが、いらないかもしれないとだけお答えしておくのである。

ううううううう。

まあ、とにかく、祭神が外宮の祭神の豊受大御神の荒魂である豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)であることから、四つの別宮の中で最高位とされるわけである。

荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま、にぎたま、にきみたま、にぎみたま)とは、神道における概念コンセプションで、神の霊魂が持つ二つの側面のことであるが、荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂であるのである。

神はときに天変地異を引き起こし、疫病を流行らせ、人の心を荒廃退廃させて争乱へ駆り立てるわけであるが、この神の祟りは荒魂の表れであるとゆーことができるわけである。

てなことであるから、多賀宮で不遜な参拝をするなんてことはもっての他であるので、作法に気をつけて、慎重にことを運ばなくてはならいのはゆーまでもないことである。

あたしはお告げに従い作法通りにまず鳥居の前で一礼し、さらに拝殿の前で深々と一礼し、それから二礼二拍手の後、全身全霊を持って謝礼御礼気祈念を果たし、一礼し、一歩下がって深々と一礼し、鳥居を抜けてさらに一礼してとっとと退去したのである。

なにしろ古すぎて、壮健の詳細なデータがあるわけもないのであるが、雄略天皇22年(478年)の外宮創祀と同時に創建されたと伝えられており、明治から「大神宮式」を基準とし高宮の表記が廃止され、多賀宮とのみ呼ばれるようになったつーことでご勘弁いただきたいのである。

何をご勘弁いただきたいのかは、後日、折を見て縷縷解説する予定もさっぱりないのであるが、いったいどーすんだこれ。

また、多賀宮専用の忌火屋殿があったが、明治に廃止されたつーことである。

忌火(いみび)とは、宮中、伊勢神宮などの重要な祭にあたって、新しく鑽(き)り出される火のことで、他の神社においても鑽火神事(きりびのしんじ)として行われるのである。

ううう、ディテールをいちいち詳細に解説して行くといったいいつになったら終わるのかわからんようになって途方にくれるのであるが、責任者出てこいっ。

ああ、責任者はあたしだ。

ううむ、ほんまにくだらん。

情けなさで涙が止まらんまま、多賀宮では豊受大神宮(外宮)正宮に準じた祭事が行なわれ、祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、外宮の別宮のうち多賀宮のみに参行するつーことであるから、外宮でも別格の別宮であると言えるわけである。

誰かはたしてこんなどーでもいいことを読んでる人が一人でもいるんだろうかと、そんな愚痴までネタにして、さらに、多賀宮の社殿は外宮に準じ外削ぎ(そとそぎ・神道用語で千木の先端が垂直に切られた形状)の千木(ちぎ)と、五本で奇数の鰹木(かつおぎ)を持つ萱葺(かやぶき)の神明造(しんめいづくり)で南面しており、遷宮のための古殿地(新御敷地)は東西に隣接しているつーことであるが、物見遊山のあたしにはもう限りなくどーでもいいのでなんことやらさっぱりであるのである。

千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、神社建築などに見られる建造物の屋根に設けられた部材であるのである。

千木は屋根の両端で交叉させた部材であり、鰹木は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材である。

写真を見れば一目瞭然のことを文章にすると興味のないものにはこのようにまったく意味不明になるのである。

ううむ、いかん、どーもちょーしに乗って書きすぎるな。

とっくに尺は足りてるのであるから、いいかげんにやめるのである。

文字が多いと読む気にならんから意味ないがね。

つーことで、荒ぶる神の社をこよなく睥睨して、神にも睥睨されて、あたしの荒ぶる魂はその波動に揺さぶられて、その力は無限に漲ることとなり帰りは一気に階段を駆け下りてすってんころりんしてイテテテであるのである。

すいません、わたくし無理に面白くしよーと思って嘘をついてしまいました。

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2013年4月14日日曜日

伊勢神宮(外宮)のパワーストーン三ツ石



伊勢神宮(外宮)の正宮前にあるパワーストーンの三ツ石である。

名にし負うパワースッポットの日本代表伊勢神宮境内にあるパワーストーンであるら、言ってみればパワーストーンの日本代表とゆーことであるのである。

この三ツ石は、正式には「川原祓所」(かわらはらいしょ)と言い、伊勢神宮の式年遷宮の際に神宮祭主や奉仕員を祓い清める修祓祭祀が行われる場所であるのである。

昔はこのあたりを宮川の支流が流れていたのであるが、明応7年(1498年)の地震でその流れが変わり、現在は川はなくなり、少し離れた場所が池となっているのみである。

しかし、式年遷宮の祭祀が行われる場所であるということもあり、川原だったことの名残りとして三ツ石が残されているそうであるのであるが、とにかくスピマニア垂涎の強力なパワースポットであるつーわけである。

それで、その周囲を紙垂(しで)を挟んだしめ縄で囲ってあるので、日本人の習性としてこーいったものを見かけたらとにかくありがたいありがたいとゆーことでお賽銭を投げてしまうので、三ツ石の周りはかなりの量の硬貨が投げられているのである。

小学生時代に培ったそろばん3級の強力な暗算脳力を発揮してざっと見積もった所、小銭とはいえこれだけ集まると、少なく見積もっても千数百円はあるのである。

まあ、そろばん3級の暗算脳力をどこで発揮しのかは不明であるが、基本的に伊勢神宮は賽銭をしてはいけないのである。

神さまに向かって小銭を投げつけるてなことは失礼千万この上ない行為であるので、あたりまえっちゃあたりまえであるのである。

しかし、そうはいっても、神社本庁頂点の伊勢神宮みたいな大手はともかく、末端の弱小神社分社末社の経営状況をご推察申し上げると、物見遊山参拝時にはあたしだって思わず賽銭箱に「ほらよ」と小銭を投げ入れてしまうのであるが、これは、あくまでも経営上あるいは歴史的建造物等の保存経費等を考えての行為であるのであって、けっして神さまに小銭を投げつけているわけではないのである。

しかし、なんだかんだいっても、これだけ我も我もと賽銭を投げる人が多いのでは防犯上からも三ツ石の前に賽銭箱を置かないといけないかもしれないのであるが、賽銭箱の前で式年遷宮の祭祀を執り行うのも変であろうから、そうもいかないのかどーなのか、とにかく石の上や周囲にこれだけの量の賽銭硬貨が投げられているのである。

それで、三ツ石を撮ってたら、袴姿の神職のお二人が大きな袋を持ってその硬貨を集めに来たので、すぐさまその労をお撮り申し上げたのであるが、考えてみたら少なからず差し支えある光景であるので、掲載はご遠慮申し上げるのである。

なにしろ、ただの石であればこんなに賽銭が集まるわけもないので、集金力から言っても、三ツ石は強力霊妙なスピリチュアルパワーを持っているわけである。

伊勢市まで足を運ばなくてもその集金力パワーも含めた霊気神気のご利益を独り占めできるのがこの動画であるので、じっくりとご堪能いただきたいが、お賽銭を動画に投げつけるとモニターが破損しますよとゆーことをひとこと言っておくのである。

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2013年4月13日土曜日

伊勢神宮(外宮)正宮



伊勢神宮・外宮は正式名は豊受大神宮である。

馬鹿丸出しで東京から動画を撮るために仕事を放り出して車を飛ばして三重県伊勢市のこの地まで参上したのである。

あたしはいったい何をやってるんでしょうかつー疑問もふつふつと沸騰して沸き上がる今日このごろであるが、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は、前述の通り、三重県伊勢市にある神社で、伊勢神宮の二つの正宮のうちの一つで、主祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)であるのである。

内宮である皇大神宮正宮ととも、日本屈指最高最大のパワースポットであるのである。

ここで、神のエナジー霊波パワー神威神変のご利益を受けずしてなんの聖地聖域神域霊域霊場参りかとゆーことであるのである。

豊受大御神は、第二十一代雄略天皇の二十二年(西暦五世紀)に天照大御神のご神慮によって丹波の国(現在の京都府北部)から、この度会(わたらい)の山田原(やまだがはら)にお迎えもうしあげたと言い伝えられているつーことであるのである。

なにしろ西暦五世紀であるので、もちろんあたしが見たわけではないし、何がなんだかわからんので、言ったもん勝ちであるので、「ああ、そう」としかいいようがないのであるが、なにしろ日本屈指最高最大の神気波動パワースポットであるので、そんな不遜なことは心の底にしまっておいて、けっして口に出したりしてはいけないのであるが、うっかり書いちゃったもんはしょーがないのである。

豊受大御神は天照大御神のお食事である大御饌(食物)を司る神であり、済度一般衆生の衣食住一切の産業の守護神であるのである。

豊受大御神の日本神話における神名はトヨウケビメで、「古事記」では豊宇気毘売神と表記されているのである。

「日本書紀」には登場せず、別称を豊受気媛神、登由宇気神、大物忌神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、とよひるめ、等々であるのである。

「古事記」では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されているつーことであるのである。

神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神であるが、後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂尊)(うがのみたま)と習合し、同一視されるようになったのである。

伊勢神宮外宮の社伝(止由気宮儀式帳)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされているつーことであるので、即ち、元々は丹波の神ということになるわけである。

神さまも一人暮らしでは食生活が安定しないとおっしゃられているのである。

また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)というのであるが、もちろん、外宮境内には別宮として多賀宮が祀ってあるのである。

外宮の神職であった度会家行(わたらい いえゆき)が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は天照大御神を祀る内宮よりも立場が上であるとしていると言い張っているつーことであるのであるが、物見遊山のあたしの立場からはなんとも言いようもないので、まあ、仲良くやってもらいたいもんである。

内宮、外宮ともに今年平成25年の「第62回式年遷宮」に向けて、平成17年から諸祭・行事が進行中であるので、工事中であるのである。

神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる定期的に行われる遷宮である。

遷宮(せんぐう)とは、神社の本殿の造営または修理の際に、神体を従前とは異なる本殿に移すことであるのである。

神宮では、原則として20年ごとに、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の二つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷し、このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、装束・神宝、宇治橋なども造り替えられるのである。

20年毎の遷宮により建て替えられる正殿は、唯一神明造りという日本古来のい建築様式を伝え、ひのきの素木を用い、平入りの高床づくりであるということであるが、正宮の鳥居から先の神域は撮影禁止であるので、神の遣いの象師匠といえどもカメラを回すと係のおじさんに「こらこら、そこの人、撮影禁止ですよ」と怒られるので、残念ながら動画は鳥居の前までであるのである。

たとえあたしのような神の御子神の遣いの大霊能者であっても、郷に入っては郷に従えという人間界の重要な規範に従わないといけないのはいうまでもないことであるのである。

また、文章がてきとーになってるのであるが、ぞれもこれも神の思し召しであるのであるから、ご意見批判苦情にはいっさいお応えしないのである。

まあ、正宮鳥居の外側からとはいえ、外宮境内全体の神気も相まって得も言われぬ美しい波動で、正宮正殿からの波動はさらに清冽な振動があたしの体内の振動を揺り動かし、「ああ、これが伊勢の豊受大御神のはどうであるなあ」としばしの感慨にむせぶことしばし、はっと我に返って、霊能レポーターとしての御役目に立ち返り、最高の神気をカメラに収めんと命がけで霊能力を発揮してのこの神域参拝であるのである。

もういいだろ、このぐらいで。

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2013年4月9日火曜日

伊勢神宮(外宮)表参道



伊勢神宮・外宮(げくう)であるのである。

伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社で、皇大神宮(こうたいじんぐう)・内宮(ないくう)と、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)・外宮(げくう)の両正宮(しょうぐう)を中心として、14の別宮(べつぐう)、百九所の摂社・末社・所管社から成り立っているのである。

外宮・豊受大神宮の主祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)であるのである。

豊受大御神は神名をトヨウケビメといい、皇大神宮(内宮)に鎮座まします天照坐皇大御神(あまてらすおおみかみ)の食事である大御饌(おおみけ)を司る神であるのである。

ついに、古来より至高至貴神社と仰がれ、日本全国の神社の総親神、神社神道の総元締め、神社本庁の本宗(ほんそう)である伊勢神宮に、古今未曾有世界屈指の大霊能者象師匠がはるばる東京より御来車御来臨遊ばしたのである。

ううむ、さすがにどーやってもこーやっても漢字だらけになるのであるが、まあ、「饌」以外はだいたい当用漢字の範囲内であるので、このぐらいはご勘弁いただいて先に行くのである。

言わずもがなのお為ごかしのお詫びをつつがなく書き添えて、日本の神道界の頂点伊勢神宮と、全世界霊能界の頂点を目指す象師匠との、いわば頂点対決であるのである。

まあ、この場合、対決という表現が相応であるかどーなのかは後の世の衆生済度の判断を待つとして、神霊と生き霊(いきすだま)の対決といってもいいわけである。

既に霊能王国タイランドの霊能界を席巻して、霊能界の世界制覇目前の不肖象師匠としては、相手にとって不足はない初顔合わせの一番であるのである。

相撲かよ。

神代における建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方神(タケミナカタ)の対決を起源とする相撲は神事でもあるので、まさに神霊界を2分する東西横綱同士の大一番とゆーこともできるのであるが、言いたい放題も度が過ぎるとそのうち誰かに怒られるのである。

とゆーことで、伊勢神宮の正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)であるが、他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあるのである。

また、一般衆生は親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも呼んだりするのである。

二十二社(上七社)の一社であり、日前神宮、國懸神宮とともに、日本における神道の神に授けられた位階である神階が授与されたことのない神社の一社であるのである。

二十二社(にじゅうにしゃ)は、神社の社格の一つで、国家の重大事、天変地異の時などに天皇の命により神社・山陵などに幣帛(へいはく)を奉献するという奉幣(ほうへい)を朝廷から受けたのであるのである。

幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌(しんせん)以外のものの総称であるのである。

神饌とは、日本の神社や神棚に供える供物のことで、御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれるのであるのである。

古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟の一つとされ、明治時代から戦前までの近代社格制度においては社格の対象外とされたのであるとゆーぐらいえらい、神社の中の神社であるのである。

伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮と呼ばれ、豊受大神宮は外宮と呼ばれるのである。

内宮と外宮は離れているため、観光ツアーなどでスケジュールの都合上、お時間が限られてる場合は内宮のみの参拝の皆さんが多いそーである。

しかし参拝作法としては、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しい作法とされているのである。

もちろんあたしは全世界70億人の魂魄(こんぱく)・御霊(みたま)を導く大霊能者というお役目柄、外宮参拝を省略などとゆーことはできるわけもないので、その作法慣例に従い、まずはこの外宮に来車来臨参上して、入り口である表参道火除橋を渡り、第一鳥居、第二鳥居を経て、正宮まで自ら徒歩にて玉砂利を踏み鳴らし、ご参拝遊ばしたのである。

いやはや、さすがに日本の神社神道を仕切る本宗とされるだけに、その広大さは外宮といえども大変なもので、行けども行けども豊受大御神の鎮座まします正宮までは遙かなる道のりであるのであるが、でもなんだかんだで表参道火除橋から正味10分ぐらいかね。

まあ、神社参拝のご利益は参道の階段に代表される血行促進体力増強が基本であるので疲れるほどよろしい効果があるのである。

人間は、何はなくとも健康であるのである。

結局そこかよ。

そーゆーことで、伊勢神宮外宮の広大無辺の境内からの鴻大勁烈なる波動を受けてさらなる霊格の高みへ飛翔できた人は幸いであるのである。

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2013年4月3日水曜日

住吉神社(東京都中央区)



住吉神社(すみよしじんじゃ)は、日本の東京都中央区佃にある神社である。

旧社格は郷社で、祭神は住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(あずまてるみおやのみこと、徳川家康)であるのである。

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、主に住吉三神を祀る神社で、日本全国に約600社あり、この佃の住吉神社もそのひとつであるわけである。

隅田川の堤防沿いの遊歩道ジョギングコースから住吉神社までの参道があり、まあ、あたし同様に物見遊山でうろうろする月島佃島観光客の散歩散策コースでもあるのである。

あたしの生家の近所にも住吉神社があって、なんとなく懐かしさで涙も溢れてくるのであるが、もちろん嘘泣きであるので、涙を拭くこともなく本殿拝殿の前に詣でて、ううう、珈琲飲んだらドーパミンがドバーと出たのかなんなのか、急に鎌倉に刺し身を食いに行きたくなったが、そんなことをしてると仕事がわやになるので、ぐぐっと我慢して、まあ、兎にも角にも、あたし同様物見遊山観光客のおじさまおばさまお二人連れと連れ立って隅田川遊歩道から鳥居をくぐってとんとんと階段を降りて参道に歩を進めると、どこから現れたのかあどけない女の子の姿をした座敷わらしが路地から現れてあたしの横をすり抜けて走り去ったのである。

言いたい放題であるのである。

しかし、これ、読んでる人いるのかね。

まあ、見れば一目瞭然言わずもがなである動画に文章ってのも、なんか意味が無いような気もするのであるが、そこはそれ、名にし負う作家小説家象師匠としては書かずにおれるか書きたいやりたい入れたい出したいあらこんなにたくさんあなたってすごいのねうふんつーぐらいの文章ちゅーどくマニアふりーくであるので、どーしても書きすぎて長くなりすぎて当節昨今の長文読解力欠如のぱーの皆さんに敬遠されること夥しく甚だしい結果になっていることは火を見るより明らかであるかもしれないのであるのである。

ううむ、火を見るより明らかって、いったい何の火なんだ?

こんなことまでいちいち食いついてるから、文章がさらに長くなって収集がつかなくなるのである。

それで、住吉神社であるのである。

まあ、この佃の住吉神社の周りは、その周囲に林立する近代的な高層マンションビルとは一線を画する、いわゆる佃島の雰囲気ふんぷんと香る香ばしい地域界隈であるのである。

なにしろ座敷わらしが路地を疾駆する美しい情景にもお目にかかれるという、心も緩み身も緩む、ああ、こんな下町に暮らせたらあたしの心も、もっと瑞々しい潤いに満ちた思い入れをたくさん持ってあの世に旅立てることであったろうと、おいおい、出棺の挨拶かよ、つーぐらいのありがたさで波動の周波数も下がり、天国極楽の脳波となるのである。

まあ、なんでも気持ちよくなれば剴切この上ないことであるのであるが、ううむ、剴切ってなんだ?

剴切(がいせつ)「ぴったりとあてはまること。このうえなく適切なこと。」

ほほう、なるほど、文章の脈絡から剴切は実に剴切であるわけであるなあ。

なんでこんな言葉が出てくるのかね。

住吉神社住吉三神のご利益は計り知れない威力があるのである。

つまり、これ、あたしの脳裏の壁龕に、20歳前後のみぎりに闇雲に多読した篇帙の語彙が聚合されており、それが、住吉三神の波動で脳が賦活化されて、ときおり、星霜遼遠の彼方に廃忘されていたものが突として迸発するわけである。

書いてる本人にも意味がわからないのである。

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富岡八幡宮



富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、東京都江東区富岡にある八幡神社である。

別名を「深川八幡」ともいうのである。

主祭神は応神天皇(八幡神)であり、相殿神として、神功皇后、仁徳天皇、天照皇大神、常磐社神、武内宿祢命、日本武尊、天児屋根命、竈大神を祀るのである。

まあ、どなたも富岡八幡宮というとこの深川八幡を思い浮かべるわと思うのであるが、本社は建久年間(1190年~1199年)に源頼朝が摂津国難波の蛭子神(現在の西宮神社)を勧請(かんじょう)して創建した神奈川県横浜市金沢区富岡町に鎮座する富岡八幡宮で、この深川八幡はその直系分社であるつーことであるのである。

氏子区域は、江東区の西部と中央区の東部であるのである。

鳥居をくぐってすぐ左横に伊能忠敬の銅像があるのである。

江戸時代の測量家である伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年に当社境内に銅像が建立されたてなことであるのである。

また、大相撲との関わりも深く、江戸勧進相撲の発祥の地としても知られ、しばしば境内で本場所も開催されたのであるのである。

特に明治維新以降、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道との関わりを強調することで生き残りをはかったためもあり、当社と相撲との結びつきが強まったつーことであるが、関係者に聞いたわけではないので、もちろん読みかじりであるのである。

現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるほか、境内には相撲にまつわる横綱力士碑などの数々の石碑が建っているのであるが、残念ながらスマホカメラは八幡神の霊気ご利益の波動を受けることを第一の旨として本殿遥拝殿に驀進しているので映ってないのである。

当社の一の宮神輿は日本最大の神輿とされ、あまりの大きさに1991年(平成3年)に初渡御が行われただけで以後は正面参道の神輿庫ショーウインドウに展示品として扱われているつーことであるのである。

この大神輿には10カラットのダイヤも埋め込まれているとゆー噂であるので、もちろん、あたしはショーウインドウのガラス越しに大神輿をくまなくご見学遊ばしたのであるが、10カラットのダイヤがどこに埋め込まれているのかわかならかったので、事実かどうかはわかんねーのである。

まあ、そんなことはともかく、八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めたのである。

誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされ、神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれたのであるのである。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)で、元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられるとゆーことあるのである。

八幡神は農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男センセーは鍛冶の神ではないかとご考察されているつーことであるのであるが、柳田さんも八幡神さんに直接聞いたわけではなかろうから、そこんところはあくまでも柳田センセーのご研究によるご推察であるわけである。

富岡八幡宮のご利益は、受験合格・学業成就・必勝・開運・除災招福・商売繁盛などであるそーであるが、まあ、古来より武士の信仰を集めたことでもわかるように、要するに勝負事がけっこういける神さんであるつーことであるわけである。

また、本殿裏にある御神木の対になっているイチョウの木は恋愛運アップのパワースポットてな都市伝説もあるのであるが、もちろん本来のパワースポットは八幡大神が鎮座する本殿拝殿であるのはいうまでもないことであるので、残念ながらご神木は収録されてないので、どーしてもご神木に抱きついて神気を頂きたいとゆーエナジーマニアは実際に足を運んでじっくりと抱きついてあらうふんと堪能していただきたい。

それでまあ、兎にも角にも絶好調で歩を進め本殿前に到着すると、厳粛な雅楽の奏上とともに八幡大神の肝魂溢れる霊気神気の波動振動があたしの体内の霊魂魂魄を揺さぶり、その勁烈たること言い表し難く、謹んでここにご報告申し上げる次第であるのである。

それをこの動画から受ける受けないもあなたの心の持ちようひとつであるのは言わずもがなのことであるのである。

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