2016年1月13日水曜日

円覚寺



円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院で、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)である。

臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山のうちの第二位に列せられ、本尊は宝冠釈迦如来である。

鎌倉五山は臨済宗の寺院を格付けをする制度で、ちなみに第一位が建長寺、第三位が寿福寺、第四位が浄智寺、第五位が浄妙寺である。


創建は弘安5年(1282年)で、開基は北条時宗である。

開山は中国明州慶元府出身の鎌倉時代の臨済宗の僧である無学祖元(むがくそげん)である。

開山と開基については、同義語的に用いられる場合が多いのであるが、禅宗や浄土宗では寺院の創建に尽力した資主を開基と呼び,その開創の僧を開山と呼んで区別しているのである。

まあ、そんなことは霊氣神氣を受ける上でどーでもいいのであるが、円覚寺境内にはお堂や拝殿や庵や、みごとな庭園や池があれこれあって、お寺のディズニーランドてなぐらい楽しめるのである。

神社仏閣に参拝するときは、この「楽しむ」という感覚が非常に重要である。

楽しむと身体が緩むのである。

緩めば毛細血管が開き、血行がよろしくなり、全身の臓器内臓の細胞にくまなく血液が運ばれ、酸素と栄養素が行き渡り、細胞の再生と修復がこよなく成就されて、健康と運気がよろしくなるわけである。

あなたの人生を決定するのは、全身60兆の細胞の状態の如何である。

細胞を再生修復するのは血管により運ばれた血液である。

細胞に酸素と栄養が行きとどかなければ、ろくなことにならないのは、スピリチュアルだのへったくれだのと言っているそうとうにおつむのちょーしが悪い人でも気がつくことである。

いやな気持ちになればアドレナリンやノルアドレナリンが放出されて血流が滞り、楽しい気持ちになればドーパミンやβエンドルフィンが放出されて血流が促進されるのである。

神社仏閣の境内の樹木の氣や配置、さらには古来からの人々の信仰による集積したよろしい波動も含めて、「霊氣神氣を受ける」ということは、全身60兆の細胞を活性化させることに目的があるのである。

いつも言うとであるが、人間は元気でなんぼである。

円覚寺境内のお楽しみの数々はその効果満点である。



山門を入ってすぐ左脇にある選仏場(せんぶつじょう)である。

選仏場というのは、いわゆる座禅道場である。

臨済宗は、日本においては禅宗のひとつであるので、その修業には座禅が欠かせないわけである。

つまり、いい大人が、何をするわけでもなく、日がな一日、お座りしてじーっとしてるわけである。

そんなことをしてる暇があったら、ボランティアで駅前のお掃除でもすればいいと思うが、そこはそれ、お釈迦さんが菩提樹の下でお座りして悟りを開いたと伝えられているので、もしかしたらまぐれで自分も悟りを開けるかもしれないと思い上がった勘違いをして、じーっとお座りしているわけである。

お釈迦さんはこの世のことわりと正しい生き方をお示しになられてはいるが、お座りして悟りを開けなんて一言も言っておられないのである。

釈迦の生まれ変わりのあたしが言ってるんだから間違いないのである。

どこかで聞いたことのあるホラであるが、その某ホラ吹きのカネ集めのための言いたい放題の口から出まかせを本気で信じている人が、日本中はもとより世界中に多々おられるので、世の中は楽しくて面白いのである。

まあ、信ずるものは救われるで、医学的にはプラシーボ効果がないでもないので、あたしゃ、一概に否定はいたしませんが、法外なお布施は無駄であるので、あたしみたいに100円均一とすることをご推奨申し上げるのである。

まあ、どーでもいい話はともかく、禅宗の修行の本体である座禅をディスっていると勘違いされては困るので言っておくが、あたしの家は父祖代々、某禅宗の檀家世話人で、あたし自身が総代も務めたことのある敬虔な仏教徒である。

某禅宗のプロのお座り師である菩提寺住職直伝であるので、お座りのレベルは、そのへんのお座りマニアのしろーとさんとは格段に違うのである。

ちなみに母は敬虔な某キリスト教徒である。

そのせいかどうか、いくらお座りしても、こんな神も仏もないろくでなしになったわけである。

だれがこんなだ。

そこかよ。

師匠、今日は絶好調でんな。

誰がでこぼこだ。

なにゆうてまんの?



円覚寺境内の小高い山の上にある大弁財天の拝殿と、国宝の哄鐘(おおがね)である。

弁財天は仏教の神であるが、もともとはヒンドゥーのサラスヴァティという川を神格化した神である。

川のさらさら流れる妙なる音から、音楽と芸事の神とされ、さらに流れるものということで弁舌の神となり、ついでに学問の神となり、日本に伝えられて弁才天から弁財天となり、財力のご利益も加えれて、あたしらお笑い芸人には実にありがたい神様となったわけである。

誰がお笑い芸人だ。

いちいちボケるのはめんどくさいが、お約束であるのでいたしかたないのである。

読者信者におかれましては、忍耐も仏道修行のひとつと心得て、修行の一環として苦笑でもいいから笑っていただきたいわけである。

つーことで、あたしの守り神は、宗像三神の一柱の市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)とそれに付きそう数人の女神であるが、市寸島比売命は神仏習合思想により弁財天と同一神とされているので、お釈迦さんのご遺言で「こだわらずにその場に合わせて生きる」ということを忠実に実践するあたしは、やたらなツッコミを入れることなく、素直になんでも拝み倒すわけである。

ありがたいありがたい、なむなむ。



舎利殿の拝殿である唐門である。

舎利殿はお釈迦さんが荼毘に付されて時の棺や祭壇も含めた灰の一部と言い張るものを安置してるので、仏教寺院である円覚寺の本体でもあるわけである。


唐門から舎利殿に向かって心ゆくまで拝み倒したのは無論であるが、それで、何かご利益を願うのは筋違いであるので、これでもかと教えに対するお礼を申し上げたわけである。

お釈迦さんの教え自体がご利益であるのである。

ありがたいありがたい、なむなむ。

なんでも拝んどけ拝んどけである。



最後に白鹿洞(びゃくろくどう)である。

円覚寺山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、この穴から白鹿の群れが飛び出してきて、説法を聴聞した という故事によるものとされるのである。

それで、もしかしたら白鹿の皆さんが飛び出してこないとも限らんので、カメラを回しながら待ち構えていたのであるが、ついに白鹿は一頭もお出ましにならなかったのである。

ありがたいありがたい、なむなむ。

まあ、こんなとこかね。

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2016年1月4日月曜日

2016年元旦江の島弁財天(江島神社)初詣



江島神社(えのしまじんじゃ)は日本三大弁財天のひとつで神奈川県藤沢市江の島にある神社である。

ちなみに、日本三大弁財天は、竹生島(都久夫須麻神社)、宮島(厳島神社)、江の島(江島神社)といわれるが、江島神社の代わりに吉野の天河大弁財天社を入れる場合もあるつーことである。


江島神社の祭神は宗像三女神で、島の西方の奥津宮(おくつみや)に多紀理比売命(たきりひめのみこと)、中央の中津宮(なかつみや)に市寸島比売命(いちきひまひめのみこと)、北方の辺津宮(へつみや)に田寸津比売命(たぎつひめのみこと)をそれぞれ祀り、これを江島大神と総称するのである。

江戸時代までは弁財天を祀っており、江島弁天・江島明神と呼ばれ、現在でも江の島の弁天さんということで親しまれているのである。

現在の祭神は明治の神仏分離の際に改められたもので、辺津宮境内の奉安殿には八臂弁財天と妙音弁財天が安置されているのである。


この動画は辺津宮境内奉安殿への参道石段を登るロケであるが、なにしろ正月元日の夜であるので、まだまだ、参拝客が引きも切らず、最上段は長蛇の列で、さすがの神選霊能者の象師匠も勝手に前に割り込むわけにもいかないので、一般衆生に混じって30分以上並んでお待ちになってなむなむしたのである。

まあ、弁財天はもともとはヒンドゥーの女神であるサラスバティが仏教に取り込まれたものである。

サラスバティは現在は無くなったインドの川の名でそれを神格化したものである。

川の水がさらさら流れる音から音楽・芸術さらには弁舌・学問の神とされ、弁才天という字が当てられていたのであるが、これが弁財天となり、財力のご利益も併せ持つ便利な神となったわけである。

さらに神仏習合により、弁財天はあたしの守り神である市寸島比売命と同一神となったのである。

弁財天をなむなむすることはあたしの守り神をなむなむすることであるので、身命を賭して全力でなむなむしたのは言うまでもないことである。

これであたしのお笑い芸人としての人気はうなぎのぼりで、今年の年収は数億円が約束されたようなものである。

だれがお笑い芸人だ。

ううむ、まあ、象気功はお笑いがテーマであるので、あながち間違いではないのである。

笑う門には福来たるであるのは、昨今、笑うと免疫力が上がるということで、医学的にも証明されていることである。

神のお告げはどこまでもなるべくしてなるのである。


随神門の中にある弁財天童子石像である。

なむなむ。

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