2013年2月21日木曜日

Bangkok・Wat Pathum Wanaram バンコクのワット パトゥム ワナラーム(蓮寺)



タイ・バンコクのWat Pathum Wanaram(ワット・パトゥム・ワナラーム)であるのである。

正式名称はWat Pathum Wanaram Ratcha Wora Viharn (วัดปทุมวนารามราชวรวิหาร)であるのである。

この寺院の周囲一帯はかつてはセンセーブ運河のみを交通手段とする広大な水田地帯であったそうであるが、現在はタイ屈指の商業地帯となり、その往年の面影はまったくないのである。

BTS(バンコク・スカイトレイン)のサイアム駅にあるサイアム・パラゴンてな超高級デパートの隣にあるのである。

それで、寺院側から見ると、境内にあるタイの歴史物語に出てきそうな趣の仏塔のすぐ後ろ側に、サイアム・パラゴンの近代的な高層ビルが背景としてそびえ立っているのである。

実はこれ、BTSの高架下の通路であるスカイロードをチットロム駅からサイアム駅に向かって歩いている時に、高架下に何やら由緒ありげな建物があるのが見えたので、

「ううむ、あのあたりになんか怪しいもののけの霊臭と波動が漂ってくるではないか。これを観逃しては心霊除霊浄霊供養研究家としても名高い象師匠の面目が立たない、ここはひとつ、どんな心霊悪霊地縛霊憑依霊祟り霊がいるのかいないのか、ぐぐっと霊観霊視した上でタイの衆生の永遠なる安寧を祈願祈念祈祷をつつなかく修祓してしまおうではないか」

つーよーな高邁深遠崇高で支離滅裂なる精神一統テンションはいやが上にも高まり、勇躍雄飛大張り切りで走りだし、元気意気揚々意気軒高の精神状態ははちきれんばかりの意欲も勇ましくスカイロードをだだだっと駆け下りてついに物見遊山行楽見学観光なされたわけである。

タイ、ラオスにおけるWat ワット (วัด) とはパーリ語の avasa ないしサンスクリットの avasatha を由来とする言葉で、寺院を意味する言葉であるつーことであるのである。

ワット・パトゥム・ワナラームはロータス(蓮)寺とも呼ばれ、その後ろにプミポン国王の第3子でタイ王室の王位継承者の一人であるシリントーン王女のお住まいであるSa Pathum Palace.(サ・パトゥム・パレス)があるつーことであるが、シリントーン王女が現在お住まいなのかどーかは定かでないのである。

まあ、もうだいぶ前になるのであるが、ご存知のとおり当時のタイでは政治にご不満の皆さんがこの寺院にも立てこもったりなさって、いろいろとあれやこれやがあったりして、そのせいなのかなんなのかどーなのかわからんが、この日は観光客もいなくて、このあたり一帯がなんとなく寂しくて閑散としているような感じがするのはあたしのおつむがうふんいやんとあそこから乖離してるせいかね。

それでも、中に入ると寺の礼拝所にはタイの学生さんらしい男女数人がお参りしていて、お寺であるので、焼香をしてから、お釈迦さんやその他のお弟子さんたちの像にお参りしておられるのである。

日本のように寺の本尊が大日如来だの毘沙門天だの不動明王だのつーよーなわけのわからない皆さんではなく、当たり前であるが、仏教の寺院であるから、仏教の開祖のお釈迦さんの像を拝んでおられるのであるが、もちろん像であってお釈迦さんではないのである。

まあ、別にお釈迦さんは偶像崇拝をとくに禁じたてなことはないそうであるが、なんにもないと拝むにも心もとないので、まあ、固いことはいわないで拝みたいように拝めばいいわけである。

まあ たとえば仏教徒以外のぱーの皆さんもありがたがっていーろいろどーでもいいことをこれでもかとご本までいーろいろお出しになってる般若心経てなものも、最近ではちゅーごくの皆さんがでっちあげた偽経(疑経〉であるつーのがあたしら通の間では一般的であるが、真経にしても偽経にしても、お弟子さんあるいは後世の皆さんによるそれなりのでっち上げで、どー考えてもお釈迦さんがほんとに言ったのかどーかはわかるわけもないのであるから、まあ、お好きなようにお楽しみになればよろしいわけである。

いや、勘違いされては困るが、べつにあたしは仏教を批判してるのではないのである。

いつも言うことであるが、あたしは某宗檀家総代も勤めた護持会役員つまり世話人の1人で、一時期はほんとにその某宗の僧侶になってしまおうと思ったことがあるぐらいの敬虔真実一路な仏教徒であるのである。

でも、実際にうちの方丈にいろいろ聞いてみると、いろいろめんどくせーので僧侶になるのは止めたのである。

まあ、そんな与太話はともかくとして、寺の門の前にはロープが張ってあって入れないのかと思ったらば、タイの皆さんが端の方から入って行くので、あたしもいっしょにお入りになったら、スカイロードから見下ろして想像していたのとはちがって、中はけっこう広くて、整然としていて、綺麗で巨大な仏塔やら仏堂やらの建物がいくつもあって、悪霊も地縛霊も憑依霊も祟り霊も残念ながら跋扈(ばっこ)なされておられないのである。

そのお堂の間に淡々と箒(ほうき)を持って掃除をしてらっしゃる僧侶の方が数人おられたのであるが、今回、タイに来て僧侶を見かけたのはこのときだけであるのである。

寺の塀の外には蓮池があり、池の畔の大樹に、日本で言うしめなわのような飾りがあって、その根本で若い女性が2人拝んでおられたのである。

まあ、つまりご神木かね。

わははは、神仏習合であるのである。

お堂が開いてないので中は見れなかったのであるが、まあ、それはそれで、建築様式を観て歩くだけでも今生の楽しみとして黄泉の国の取締役員の方々への袖の下といたしたいわけである。

なにしろ神のお告げの自動書記御筆先であるので、なんのことだか書いてる本人もさっぱりわからないのである。

てなことで、ワット・パトゥム・ワナラームの霊気波動はあなたの波動脳波を共鳴させて、神界霊界あの世とこの世のつれづれ道連れになるのかどうかは、あなたの身体のレベルしだいであるのである。

スピリチュアル   精神世界

2013年2月18日月曜日

タイ・バンコクのセントラルワールドプラザ前のガネーシャ



タイ・バンコクのセントラル ワールド プラザ広場の一角の伊勢丹前にあるガネーシャの祠(ほこら)であるのである。

隣にはトリムルティ・Trimurti(三神一体・ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァは一体であるという近世以降の考え)の祠もあるのである。

まあ、祠つーとお地蔵さんや庚申さんてな仏像あるいは神像を祀った、道端にあるごく小さな小屋てな感じであるが、このセントラルワールドプラザ前広場のガネーシャとトリムルティの社殿は、祭壇や象さんの像などの飾り物を含めたその周囲の状況からすると、日本人的感覚では祠というよりは神社てな言い方がしっくりくるような規模であるのである。

しかし、日本の神社のような神社としての敷地があるわけではなく、デパートの敷地の一部にガネーシャ像の入れ物が置いてあるてなことであるわけであるので、やっぱり祠かね。。

まあ、英訳では祠はShrine(神社)あるいはSmall Shrineとなっているので、神社が神の社(やしろ)であるという本来の意味からすれば、神社でもよろしいわけである。

ううむ、ものすごくどーでもいいのである。

ガネーシャ(गणेश, gaNeza)は、ヒンドゥー教の神の一柱で、その名はサンスクリットで「群衆(ガナ)の主(イーシャ)」を意味するのであるのである。

同じ意味でガナパティ(गणपति, gaNapati)とも呼ばれるのであるのである。

また現代ヒンディー語では短母音の/a/が落ち、同じデーヴァナーガリー綴りでもガネーシュ、ガンパティ(ガンパチ)などと発音され、日本風ではガナバチイとなるのである。

まあ、これ、いずれにしても表記をカタカナにしただけであって、本来の発音と違うのは言うまでもないことであるのでこだわってもしょーがないの、お好きに発音していただきたいのである。

英語風に訛ればガーネッシュ(Ganesh)などともなるのであるが、それもこれも聞いた人の母国語によって、聞こえ方がさまざまであるので、お好きに発音していただきたいわけである。

ガネーシャは太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭に4本の腕を持つ神であるのである。

障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、学問の神であるとともに商業の神ともされるのであるので、タイの商業地域の中核の一つのセントラルワールドプラザ前の広場の一角に商売繁盛売上倍増の役割を担って鎮座ましましておられるわけである。

インドのマハラシュトラ州を中心にデカン高原一帯で多く信仰され、またご存知の通り日本でも歓喜天として信仰を集める人気の神様であるのである。

また、ガネーシャの像の中には杖を持っているものもおり、この杖は「アンクーシャ」と呼ばれている。

アンクーシャは象を御するための引掛け棒てなことであるが、ガネーシャが自分の象頭にアンクーシャを引っ掛けたりするてな支離滅裂なことをするのかどうかは、本人に聞いてみないことにはわからないのである。

ヴィナーヤカ(Vinayaka、無上)、ヴィグネーシュワラ(Vigneshwara、障害除去)、ガネーシャ(Ganesha、群集の長)、ガナパティ(Ganapati、群集の主)との神名を持つのであるつーことであるのである。

これはヒンドゥー教でよくみられるように複数の神名を持つのは、複数の神格が統合されたためと考えられるわけであるのである。

元来は障害神であったのが、あらゆる障害を司る故に障害を除去する善神へと変化したつーことであるのである。

ありとあらゆる障碍を除くことから、新しい事業などを始めるにあたって信仰され、除災厄除・財運向上のご利益でも信仰を集めているのである。

また智慧・学問の神でもあり、学生にも霊験豊かとされ、祈祷を始めとして、あらゆる開始にあたってまずガネーシャに祈りを捧げると良いとされるので、このセントラルワールドプラザのガネーシャにも合格祈願学問成就を願う学生さんとみられる皆さんが多数お参りなされているのである。

まあ、日本で言うと商売繁盛の稲荷さんと学問成就合格祈願の天満宮を合わせたご利益であるわけである。

象の頭を持つ理由の神話として、もっとも有名なものは、パールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで自分の子供を生んだのであるが、パールヴァティーの命令で、ガネーシャが浴室の見張りをしている際に、シヴァが帰還した。ガネーシャはそれを父、あるいは偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒んだ。シヴァは激怒し、ガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨ててしまったあとにパールヴァティーに会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけても見つけることがでず、そこで旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け復活させたつーことで、これが、ガネーシャが象の頭を持っている所以とされるのであるが、ちょっとトイレ。

まあ、それで、最も有名なマントラは、以下のものである。

Aum Shri Ganesha Namah

Aum Gam Ganapati Namah

マントラを唱える前には、手足を清潔に身を清めてから着座し、数回の調息を行ってから実施するようにしていただきたいつーことであるのである。

それでマントラは、108回、もしくは念珠の1周分もしくはそれ以上の周回分を唱えるのであるのである。

ガネーシャのマントラは、あらゆる悪・障碍・悪霊を退け、財産・智慧・成功をもたらすとされるのであるのであるから、これもう、天下無敵、極楽往生、あなたもあたしもあそこはキリマンジャロてなぐらいりがたーいご利益満載であるのである。

日本密教(台密・東密)の天台宗・真言宗ではガネーシャを起源に持つ歓喜天(聖天)が天部の護法神、鎮守神として信仰されるのである。

歓喜天(かんぎてん、Skt:Vinayaka、गणपति Ganapati、もしくは ナンディケーシュバラ nandikesvara 歓喜自在天)は、仏教の守護神である天部の一つであるのであるつーよーなことであるのである。

また、聖天(しょうでん、しょうてん)、大聖歓喜天、大聖歓喜大自在天、大聖歓喜双身天王、象鼻天(ぞうびてん)、天尊(てんそん)。あるいはVinayaka、Ganapatiを音写して、毘那夜迦(びなやか)、誐那缽底(がなぱてい)ともいうのであるのであるが、音写であるので、むりやり当てはめただけで、古代ヒンディー語の本来の発音とは似ても似つかないかもしれないのはご理解いただきたいわけである。

歓喜天を祀る代表的な寺院は、生駒(いこま)聖天・宝山寺、待乳山(まつちやま)聖天・本龍院、妻沼(めぬま)聖天・歓喜院が日本三大聖天として有名であるのである。

まあ、あたしは東京地方のお住まいであるので、神のお告げ啓示神示お光を賜りあまねくこの世に降り注ぐ御筆先である象源教教祖としてのお役目柄、待乳山聖天には何度も足を運び、大根をお供えして日頃の守護鎮守のお礼をこれでもかと奉唱なされておられるのである。

歓喜天の真言つまりマントラは、サンスクリットのアルファベット表記では、

Om hrih gah hum svaha 「ओम्(ॐ ) ह्रीः (十一面観世音菩薩の種字) गः(歓喜天の種字) हुं (軍荼利明王の種字) ह्री」

であるのである。

まあ、種字の発音の是非は置いといて、アルファベットをローマ字読みすると、「オーム ヒリフ ギャフ フーム スヴァーハ」てなことであるのである。

まあ、元はもちろん古代サンスクリットの発音であったものがヨーロッパに伝わりアルファベットになり、中国に伝われば漢字になり、さらに中国から日本に伝わりカタカナになるころには、「オン キリク ギャク ウン ソワカ」あるいは「オン キリ ギャク ウン ソワカ」とお馴染みの歓喜天の真言になるのである。

どう考えても、元のマントラとは似ても似つかない別物であることはご理解いただけると思うのである。

まあ、だからね、てきとーでいいわけである。

ちなにみ大呪は、

「ナム ビナヤカシャ カシテイモカシャ タダヤタ オン ナヤカナヤカ ビナヤカ ビナヤカ タラヤカ フリタラヤカ カムカシッテイ カムカ カチッタ ソワカ」

であるのである。

これももちろんサンスクリットを漢字にしてさらにカタカナ変換であるので、元の発音とは別物であるのである。

まあ、仏教の開祖であるお釈迦様は「呪文てなもんはろくなもんじゃありませんから、そんなものをアホみたいにがなりたてちゃいけませんよ」てなことをおっしゃてたわけである。

しかし、まあ、どーせ元のものとは似ても似つかないものであるのであるからそんな固いことは置いといて、お好きな方はこの歓喜天の大呪を心ゆくまでアホみたいにがなりたてると、七代の運を一代にして使い切るてな、子孫に大迷惑なご利益をあなたが独り占めにできるかもしれないつーことを歓喜天秘法では言い張っておられるのであるのである。

でも、七代に渡る子孫の運を使い切ってしまうつーよーな自分さえ良ければいいてな無法乱暴であるので、子孫に迷惑をかけるのが嫌な人はお控えになった方がいいかもしれないのである。

てなことであるが、ご存知の通り、日本では荒々しく厳格な祟り神としての一面も持ち合わせているので、修行のできていない我々ぱーの衆生がいいかげんな気持ちで大呪を唱えたりすると逆に災いを呼び込んでしまうので、唱えるからには、身を清め、浴油供、華水供、酒供、菓子供等の供養法を妥協なく行い、命がけの決心の上に修法しなければならないつーよーなことであるので、実にめんどくさいっちゃめんどくさい神様であるのである。

まあ、タイではべつに命がけてな様子もなくて、皆さんが近くの露店屋台で売ってる献花や供物を供えて、願い事を拝み倒しておられるのである。

あたしはもちろん、待乳山聖天さんに参拝する時同様に、「あー、ありがたいありがたい、あんたはえらい!、いよっガネーシャ!世界一!、牙が一本折れてるところがイキだねー」と褒め倒したわけである。

まあ、なんでも褒めときゃ、誰でも嫌な気はしないのである。

ここがね、人生世渡り身過ぎ世過ぎの極意っちゃ極意であるのである。

悪意を示せば悪意が返り、好意を示せば好意が返ってくるのである。

悪意が返ればあなたの人生は暗転し、好意が返ればあなたの人生は好転するのである。

当たり前であるのである。

自分の周囲が悪意だらけで運気も最低でにっちもさっちも行かないなんて人は、ひとまず周囲をよいしょしてみることをお奨めするのである。

大嫌いな人間もよいしょしてみるのである。

これ、べつに口先だけであるので、金も時間も体力もかからないのである。

あたしみたいに相手の発する波動でその精神状態が事細かにわかるなんて人間はめったにいないので、たいていはその波動よりも、口先の方が気持ちいいので、気持ちいい相手には気持ちいい対応をするようになるのである。

神様仏様によいしょすることにより、脳の神経細胞ニューロンシナプス受容体の組成をその方向に向けるのである。

口先三寸で人生が逆転好転前転バク転宙返りするのであるから、やらない手はないのである。

つーことで、この世の隅々まで愛のむきむきめきめきもきもきあーきもいを降り注ぐことを使命とする偉大なる大霊能者象源教教祖象師匠の師匠筋にあたるガネちゃんの神気霊気波動をこの動画からいかんなく受けて、あなたの明日がうららかに腫れた青空天空の白い雲となるのかどうかは、あなたの日頃の心がけ次第であるのは言うまでもないことであるのである。

スピリチュアル   精神世界

2013年2月14日木曜日

Erawan Srine・Bangkok Thailand エラワン・プーム(祠)



エラワン・プームはバンコクのグランドハイアット・エラワン・ホテル前にあるヒンドゥー教のブラフマー(梵天)を祀る祠(ほこら)であるのである。

祠とは神を祀る小規模な殿舎(でんしゃ)のことである。

三神一体論(トリムールティ)では、ブラフマーは三最高神の一人で、天地宇宙の創造と次の破壊の後の再創造を担当している神であるのである。

まあ、エラワンのタイ的な発音ではエーラーワンてなことをおっしゃる向きもあるのであるが、タイ国政府観光庁でもエラワンと表記なされてるのでエラワンつーことだね。

「エーラーワン」と名前にはあるがエーラーワンの語源であるアイラーヴァタは祀られていないのであるのである。

アイラーヴァタは、 ヒンドゥー教に伝わる聖獣で、インドラの乗り物とされ、自由に空を飛び、インドラと共に天を行き、雲を生み雨を降らせるという、翼をもち、牙が左右2本ずつで、合計4本もつ白い巨象であるのである。

中国人・華人・華僑の皆さんによって四面仏と呼ばれるが、仏ではなく神であるのである。

また、日本ではエラワン・プームとも呼ばれているが、翻訳すると「土地のアイラーヴァタ」という意味不明な単語であり、またタイ語でもこのように呼ばれないそうである。

まあ、日本的に考えれば土地神つまり産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)あるいは地主神(じぬしのかみ、ぢぬしのかみ)てなことで、その土地の守護を司る神てな意味合いであると思うのであるが、この祠を作った人に聞いたわけではないので定かではないのである。

しかし、これもタイ国政府観光庁のホームページではそのまま「エラワン・プーム」と表記なされているので、日本語ではエラワン・プームでよろしいわけであるが、ややこしいのでお好きに呼んでいただきたいわけである。

どうホームページのタイ語表記のศาลท่านท้าวมหาพรหม โรงแรมเอราวัณを日本語に訳すと「裁判所梵天エラワン」となるのであるが、これをタイ人である知人にお伺いすると、「裁判所のバラモン(Brahman)」と言っていたのであるが、ブラフマン(Brahman)とバラモン(Brahman)は同表記であり、ブラフマンは宇宙の起源を司る神であるので、宇宙の想像の神であるブラフマーの起源であるのでかどうなのか、もうこうなると何が何だかわからないので、まあ、お好きな方はとことんマニアックにお調べいただいてお楽しみいただきたい。

それはともかく、たしかに、タイにお住まいの日本人である知人も、通常はエラワンあるいはエラワンの祠あるいはErawan Shrineてなことを言っていて、エラワン・プームとは言わないのである。

だから、まあ、エラワン・プームは確かに日本語であるわけである。

この、エラワンの祠の創建ついては、1953年にエラワンホテルの建設工事が始まったのであるが、当時事故が多発して工事がなかなか進みまなかったことから、占星術師にヒンドゥー教神のブラフマー(宇宙の創造を司る)を祀る祠を設けるよう勧められ、この祠が建立され、以降は工事が順調に進んだてなことである。

しかし、実際は、エラワンの祠が建立された時にはすでにほとんどの建設が終わっており、建立の理由もすでに設置された礎石が占星学的によくなかったためといわれてな話もあるのである。

まあ、それで、このエラワンの祠は「願い事がかなう神様」として、人々に口コミで知れ渡り、病気平癒や家内安全から金運、人気運などの願いをなんでもかんでもかなえるべく、今も絶えまなく多くの人たちがお参りに来るようになりったのであるそうである。

この後、多くの場所でブラフマー神が土地神として悪霊を鎮めるという信仰が広まり、あちこちに多くのブラフマーの祠が建設されたつーことである。

サイアム・ラチャダムリ周辺でも商業ビルの前などにあちこちそちこちにやたらとあるのである。

あたしがおじゃました、知人がお住まいのバンコク郊外のパンカビ(Bangkapi )地区のマンションの前の住宅街にも同じような祠があったりして、まあ、言ってみれば東京都内に江戸時代に流行してあちこちに建立された稲荷さんみたいなもんであるわけである。

また、このエラワンの祠のブラフマー像自体も多くの信仰を集め、特にビジネスマン、中国人などによる巡礼が盛んになったつーことであるが、たしかにこの日もタイの皆さんに混じって、中国の皆さんが観光客も含めて大勢で参拝なされておられたのである。

それで、巡礼者による寄付金があまりにも大量に集まることから、1969年、ホテル経営者側は寄付金を管理する基金を設置し、寄進された寄付金は、病院の医療設備の購入などの慈善活動に使うこととし、またこの基金は祠の管理も行っているつーことであるのである。

また、ここで願い事が叶った人が、神様に踊りや音楽を奉納する習慣があるつーので、敷地内に舞踊団が待機をしておられて、タイ音楽と艶やかなおねーさん達によるタイ舞踊をご披露していただけるのである。

まあ、動画を見ていただければお分かりの通り、タイ人中国人欧米人といーろいろご参拝に来られて、毎日、朝から夜まで大賑わいであるのである。

まあ、こーなるともちろんこのエラワン・プームのブラフマー神を醸成する人々の想念により光り輝くほどに集積する神気霊気の波動はいやがうえにも高まり、さらにそこに妙なるタイ音楽の演奏とタイ舞踊のおねーさんがたのあら嬉しのお姿も艶やかに、参拝客に運気は当然、雲の彼方あの空の向こうまで立ち上って、遠くからでもこの区画から絢爛豪華に振動波動をの鈴生り枝ぶりを垣間見ることができるほどであるのである。

まあ、あたしゃ、例によって、神様にお願いなんかするとろくなことはないというコンセプトの教義ご神託を広める神選神の光後光の擦り切れ象源教教祖としての御役目柄、ありがたいありがたいとのお題目祝詞を奏上して、わはははと破顔大笑爆笑のうちに参拝礼拝五体投地を7回拝してつつがなく終えた次第であるのである。

まあ、タイに行く機会のない人も、この動画から天地宇宙創造神であるブラフマーの神気霊気の波動を受けて、その共鳴により自らの波動の周波数を下げて運気上昇の機縁呼び水原動力としていただきたい。

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