2013年4月16日火曜日

伊勢神宮(外宮)風宮



三重県伊勢市豊川町にある伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の境内別宮・風宮(かぜのみや)である。

風宮の祭神は、内宮(皇大神宮)別宮の風日祈宮と同じ風雨を司る神とされる級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)である。

古くは農耕に適した風雨をもたらす神であり、現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社)であったが、1281年(弘安4年)の元寇の国難に際し神風を起こして日本を守ったとして別宮に昇格したのである。

風宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓に位置する外宮の別宮である。

外宮正宮前の池の横の多賀宮への参道にある高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられる亀石を渡った左側に風宮があるのである。

別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされ、外宮の別宮は風宮のほか境内に多賀宮(たかのみや)と土宮(つちのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるのであるが、風宮が別宮となったのは1293年(正応6年)と最後であり、4別宮の中では第4位とされるのである。

風宮の由緒に関しては、997年(長徳3年)の「長徳検録」に外宮所管の田社32前の4位の風社と記されたとの、度会家行さんによる「類聚神祇本源」での引用が最古であるつーことであるのであるが、なにしろ昔のことであるのでよくわからないつーことである。

「田社」は現在の末社に相当し、現在の摂社以下の扱いであり、風神社は末社相当であったが、祭神が生活の基本である農耕に都合のよい風雨を司る神であることから風日祈祭が行なわれ、五穀豊穣の感謝祭である神嘗祭(かんなめさい)においては懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視され尊重されるようになったのである。

前述の1281年(弘安4年)の元寇では朝廷より為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、内宮の風神社と外宮の風社で祈祷を行なったのである。

それが台風の時期であったためにそこに台風が通りかかって、当時はCNNのワールドウェザーてな天気予報もなかったので何も知らずに日本に押し寄せた元軍はえらいめにあって退却し、日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利として1293年(正応6年)に風神社と風社は、「あんたらはえらい!」つーことで別宮に昇格され、内宮・風日祈宮(かぜひのみや)と外宮・風宮(かぜのみや)となったのである。

江戸時代末期にいわゆる黒船来襲てなことで欧米諸国が日本を訪れるようになり、異人さんが怖いてなことでお困りになった朝廷は1863年(文久3年)5月に風日祈宮と風宮で攘夷の祈願を15日間行なったのであるが、残念ながら台風の時期ではなかったせいなのかどーなのか神風は吹かず、文明開化となり日本自体が欧米化してしまったのである。

1876年(明治9年)の伊勢暴動の際には、月夜見宮近隣の町が炎上し、宮への類焼が懸念されたことから、月夜見宮の神体が一時的に風宮へお引越しされたつーことであるが、だからなんだといわれても、あたしにもお答えしようがないのである。

毎年5月14日と8月4日に風雨の順調と五穀の豊穣を祈る風日祈祭が行なわれるので、興味のある人、あるいは家庭菜園などがご趣味のの人はいっしょに祈るといいかもしれないのであるが、もう飽きてきちゃったので本日の収録はこのへんで終わるのである。

なにしろ、神さまの中の神さま伊勢神宮であるので、14の別宮、109の摂社末社所管社から成り立っていて、盛り沢山すぎて、もうこれ、参拝しきれないのであるが、まあ、どれが重要でどれがどーでもいいてな問題でもないのでどれもこれもありがたいありがたいであるのである。

まあ、あたしは直接ご来駕申し上げて、その御利益をダイレクトに受領してしまうわけであるが、そのお裾分けつーことで象気功読者諸氏諸兄諸姉に動画から霊気神気の波動をお届けするわけである。

まあ、お気づきの方も少なからずおられると思うが、魂体の界層は嘗てない方向に浮動しており、正確にあなたの座標軸を調整してその方向に第三身体の波動を調律しないと取り残されてしまうのである。

その波動を調律するためにも、あなたの第三身体をこの動画の中に送り込み、霊波動の磁場の海に浸かることが肝要であるのである。

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