2020年12月29日火曜日

恵林寺


象気功

恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院で、山号は乾徳山(けんとくさん)である。

臨済宗妙心寺派に属し、甲斐武田氏の菩提寺として知られる寺院である。

てなことで仕事で甲府に来たついでに、なにはともあれ霊氣神氣をいただかないことには夜も日も明けない体質である。


何を言ってるのか非常に不明瞭な滑り出しであるが、駐車場にお車をお駐車して、恵林寺の総門である入り口の通称「黒門」をくぐると何やら参道に人影がちらほらである。

どうも正月を迎えるために檀家の当番の皆さんが境内のお掃除をしてるらしいのである。

あたしも某寺檀家総代も努める護寺会役員つまり世話人であるのでよくわかるのである。

しかし、あたしの菩提寺では新型コロナ流行に鑑み、感染防止の観点から世話人の集合とそれにともなう会食という名の宴会は取り止めで、坊さんのご家族だけでお掃除してるのである。

もちろん施餓鬼その他の寺の行事もいっさい取り止めである。

そうは言っても、まあ、感染者だらけの東京の寺の事情と感染者ほぼゼロと言っていいような山梨の寺の事情とは違うとは思うが、楽しそうにおしゃべりしながらお掃除してるお年寄りの皆さんを見て、感染は大丈夫なのかねと心配してしまうのである。

こんな誰も興味のないどーでもいい話をしてるといつ終わるのかわからんのでさっさと次に行くのである。

参道の杉その他の並木を抜けると見えてくるのが国の重要文化財指定の「四脚門」であるが、通称は総門の「黒門」に対して「赤門」である。

「四脚門」の次は県の重要文化財に指定されている「三門」である。

逆光である。

見りゃ分かるのである。

ああ、そーかよ、そりゃよかったな。

得意のスルーわざである。

なにそれ。

つーことですったもんだの末、無事に甲州市指定文化財の「開山堂」にご到着である。

誰がすったもんだだ。

得意の一人ボケである。

すごくスベるのは承知之助であるがやめらんないのである。

誰が承知之助だ。

開山とは寺院を建立することであり、転じて寺院を創設した僧のことである。

開山堂はその名の通り開山の像を祀ったお堂であるわけである。

当たり前である。

象気功は当たり前のことしか言わないのである。

ここで当たり前体操を踊りたいが、さすがに古すぎるので踊らないのである。

言わなくても良いネタを言うから長くなっていつ終わるのかわからない体たらくになるのはわかっちゃいるけどやめられないいわば病気みたいなもんである。

この開山堂には開基の夢窓疎石(むそうそせき)と共に快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が道内に安置されているのである。

さて、とにもかくにも張り切って賽銭箱に大枚100円を喜捨して、あらん限りの氣を発して勢いよく不動明王真言をこれでもかと爆唱してやろうと思ったら、扉になにか貼ってあるのである。

「夢想国師象の調査点検の為当面の間閉めさせていただきます」

つーことで100円助かったのである。

こらっ。

大庫裡の門である。

庫裡とは伽藍を意味し、お寺の台所、つまり坊さんの住居のことである。

門から庭に入るとこんなんである。

寺院側では左側が大庫裡の玄関で、右側が大庫裡の入り口であると言い張ってるのである。

庫裡というのは寺院の台所つまりお勝手であるから、右側は勝手口入り口ということであるわけである。

これが左側の大庫裡の玄関であるが、もちろん「たのもー」なんて声をかけたりするとこの時期にはいろいろ差し障りがあるので、お控え申し上げたのは言うまでもないことである。

いずれにしてもあたしら物見遊山の一般観光客はここから入れないのである。


下賤なあたしら一般観光客はこの勝手口の大庫裡入り口から入るわけであるが、自動チケット販売機らしきものが見えるので、拝観料をふんだくられそうだし、新型コロナ感染予防の観点からも室内をうろうろする拝観はまた今度ということである。

大庫裡の前にある「庫裡の鬼瓦」である。

恵林寺は生前の信玄によってえらい目に遭った織田信長の腹いせで焼き討ちに遭った後、徳川家によって再興されるわけであるが、この鬼瓦は焼き討ち以前のものであるということである。

大庫裡の前の手入れの行き届いた日本庭園の立派な松である。

鬼瓦にも植木にも庭造りに全然興味がないので、どんどん先に行くのである。


小田切騒動受難の碑である。

もちろんなんのことかまったくわからんし、鬼瓦や植木や庭造りと同様に小田切騒動にもなんの興味もないので、とっとと先に行くのである。


それでは小田切騒動にあまりにも失礼であるので、この看板をアップしてお詫びとするので、読みたい人はじっくりと読んでいただきたいのである。

このいいかげんな展開にしまいには怒り出す信者もおられると思うが、人間何事も辛抱が肝心である。

あわてるなんとかはもらいが少ないという故事にもあるとおり、この先読み進めれば氣の扇が開陳されているかもしれないのである。

ああ、ごめん、扇じゃなくて奥義だ。

ううむ、おそらくこの先も、扇も奥義もないな。

武田信玄を模刻した「武田不動尊」のある明王殿に行く参道である。

明王殿の入り口である。

この奥に武田不動尊像が鎮座しているわけである。

おお、りっぱな三重の塔がある。

これはさぞかし由緒のある建物であろうと眺めていたら、立て札になんか書いてあるのである。

近寄ってみたら、この三重の塔は納骨堂で、「申込み受付中」である。

この塔の下で安らかなる永眠をご希望の方はその料金も含めてお寺に問い合わせいただきたい。

なんのCMだよ。


経堂である。

経堂とは読んで字のごとく寺院で経文を収めておくお堂のことである。

経文とは本来は釈迦の辻説法を書き起こしたものであると弟子その他が言い張ってるものである。

その後に中国等のそのへんのおっさんによってでっちあげられたものは偽経というのであるが、般若心経も偽経のひとつであるというのは世界的な仏教学界ではすでに定説であるなんてことは言いません。

ゆーとるがな。

しかし、釈迦が生まれたとされるのが2千数百年前で、生まれ年の説も学者によって数百年の差があり、実際にはまったく定かでないような話である上に、キリストと同様に存在自体がときの為政者のでっちあげであるという説もあって、こんなあやふやで怪しいものを当てにするのは、「神」の存在を本気で信じるのと同様に低知能のバカのすることである。

釈迦をボロクソにディスってると勘違いされると困るが、前述したように、あたしは某寺檀家総代も努め、釈迦をこよなく敬愛する、敬虔な仏教徒である。

言ってることが支離滅裂に聞こえるかもしれんが、この世は矛盾を糧に成立しているのである。

物質と反物質が相反し、宇宙と反宇宙が相克してあたしらが存在するのである。

そしてあたしらのすべての現実は脳が作り出した幻想である。

自己と他は同一であり、この世はすべてが同一である。

それが縁起である。

残念ながら、オチはないのである。

笑わせてなんぼの象気功としては、実にほぞを百回カミカミしてしまうぐらいの悔しさである。

さて、恵林寺境内散策を心ゆくまで堪能して、境内から道路を挟んで信玄館寿安門てな門が見えたので入ってみるのである。


思いっきりの観光用の土産物店を兼ねたお食事処である。

その入り口横にある武田信玄公の像である。

だからなんだと言われても、言いたいことはとくにございません。

その隣りにある八百屋である。

この八百屋で干し柿を買ったのであるが、食っちゃったので写真はないのである。

うまし。

春日かよ。

ハイハイ、終わり。

信者の皆さん、逃げないでながーい目でみてやってください。

泣き言かよ。

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