2019年9月19日木曜日

大山阿夫利神社下社の108段の石段を登って神泉大山名水の神氣を受ける



神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社下社の参道には最後に108段の石段があるのである。

まあ、門前町に当るこま参道の石段が326段であるので、下社拝殿に詣でるにはざっくりと434段の石段を登らなければならないわけである。

まあ、日頃の体力のあるなしに関わらず、ある意味修行であるが、こんな程度で修業なんて言われた日には本職のあたしらからすればちゃんちゃらおかしくてへそが茶を沸かすのである。

だれが本職だ。


まあ、いつものごとく誰も聞きたくない能書きをあれこれたれていてもいたしかたないので、大山ケーブルカーの駅を降りて境内までの参道をすたすたと歩くわけである。


すると階段があるので、これもとんとんと登ると境内に到着の運びとなるのであるが、これを軽やかに楽しむには日頃のスクワットが重要である。


スクワットが十分な人は鼻歌交じりに石段を登り終えるとめでたく鳥居をくぐって拝殿前へと進めるのである。


スクワットが不十分な人はひーこら言いながら何度か休憩を挟めば、めでたく鳥居をくぐって拝殿へと進めるのである。

このくだりはいらんだろ。


鳥居の横には日本遺産と銘がある像がお立ちになっているのであるが、どうも江戸時代の大山詣りのお姿らしいのである。

巨大な木太刀をかついで大山詣りてなことが書いてあるので、江戸庶民はこんなかっこうで大山に登ったわけであるが、まあ、当時はケーブルカーもないし、参道は文字通りの山道で整備されていないし、熊や猪なども出没するであろうから、それらの猛獣と闘いながら登るにはこのような巨大な木太刀が必要だったわけである。

ほんとかよ。

しらんがな。


さて拝殿前ではふざけたりすると神罰てきめんで帰りに石段の足を踏み外して真っ逆さまてなことにもなりかねないので、神妙に100円払って、いや失礼、寄進して、はらいたまえきよめたまいまもりたまえさきわえたまいなむなむと唱えれば、ううう、頭が痛い。

ほらみろ。

だって神仏習合は日本の伝統文化じゃんか。

じゃんかって、あーた。


いったいどこが霊氣と神氣なのかわからんという声も聞こえる昨今であるが、あたしにだってわからんのである。

もちろん神のお告げお指図でこのブログをしたためているのであるから、あたしの書くことは神の御言葉であるのは言うまでもないことである。

ほんとかよ。

だから、しらんがな。


書くというよりは、書かされているという方がより正確な表現であるのはあたしが保証するのである。

なんなんこの文章は、ばかなの?

やんのかこら。

怒ったらあきまへん、神は陽気にならんと降りてきまへん。

笑う門には神来たるである。


まあ、ある程度人生経験を積んで感づいてる人もおられると思うが、不運な人は仏頂面で、幸運な人は恵比須顔である。

人生を少しでも好転させたければ、笑っとけ笑っとけである。



まあ、人を笑わせるのはあたしら手練れのネット芸人といえどもひじょーに難しいわけであるが、自分が笑うのは簡単である。

なんでもいいから朝からニヤニヤ、昼にはわははは、夜にもどわははは、寝たらうへへへ、である。


つまり、神霊も心霊も動物霊も、悪霊は仏頂面に寄り集まり、善霊は笑顔に寄り集まるつーことである。


あなたが、自分はどうも運が無いと思ったら、鏡を見れば一目瞭然である。

眉間に縦じわ、眼は三白眼で、口はへの字のみごとな仏頂面の見本である。

精神状態はいやがおうでも顔に出るのは人体のシステムのいかんともしがたいところであるが、逆に言えば、自分の顔を鏡に映せば精神状態が早わかりであるので、便利っちゃ便利である。


つまりは波動の問題である。

まあ、とにかく不機嫌な人にはなんとなく近寄るのが嫌である。

その「なんとなく」が、その不機嫌な人の発する氣である波動のなせる業である。

波動のみの存在の神や霊がさらに敏感にその波動に影響されるのは、そうとうなあほでもない限り理解できる話である。


深刻になればなるほど良い運は逃げてゆき、楽観的になればなるほど良い運は寄ってくるのである。

陰気になるほど運は下り、陽気になるほど運は上昇するのである。


これはもちろん自堕落だの野放図だの怠惰だの出鱈目だのと違うのは言うまでもないことである。


たとえば、笑うものは古今未曽有の危機にあってもどーゆうわけか生き残り、不機嫌なものはそのまま帰らぬ人となるのである。

ところが常日ごろ不機嫌で仏頂面のものが笑顔になるぐらい難しいことはないのである。

親も先祖も不機嫌遺伝子満載の不運脳であるので、ほぼほぼの人はそのまま親と同じ不機嫌遺伝子を受け継ぎ、治しようもないのである。

たとえ、本人がこのことに気づいて、一大決心をして治そうと思っても、不機嫌遺伝子の呪縛は強烈で、とにかく元に戻ろうとするのである。


このように運命運気は本人の意思とは無関係に方向性を決められ、いやおうなく不機嫌遺伝子を受け継ぎ悪霊を集めることにご執心の人は、この世の地獄の底をのたうち回ってあらいやんとなるわけである。

めでたしめでたし。


それがいやなら無理にでも笑えばいいだけである。

簡単簡単。

わはははははははははのはっはっはーっ。

ほらね。

象気功を読んで怒ってる人は人生を諦めなさいね。

そこかよ。


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