霊能気功家象師匠が日本中の霊氣神氣を集めるべく占術を駆使して造られた空間を霊視で巡るスピリチュアル巡礼ツアーである。宇宙の創造主の神意を賜り、魂の浄化を体現し、その清浄な氣によって運命運勢運気を上昇に導くのである。
2013年3月3日日曜日
築地本願寺
築地本願寺(つきじほんがんじ)である。
築地本願寺は、東京都中央区築地三丁目15番1号にある浄土真宗本願寺派の寺院であるのである。
本尊は聖徳太子の手彫とされる阿弥陀如来立像であるのであるが、「とされる」のであって、あたしが聖徳太子さんに聞いたわけではないので定かではないのである。
京都市にある西本願寺の直轄寺院である。
創建は元和3年(1617年)で、開基は准如(じゅんにょ)であるのである。
准如は、安土桃山時代から江戸時代の浄土真宗の僧で、諱(いみな)は光昭、院号は信光院であるのである。
さらに准如は西本願寺第十二世宗主で第十一世宗主顕如(けんにょ)の三男で教如(きょうにょ)の弟で、母は三条公頼の娘(細川晴元の養女)つーよーな高貴な母上であるのである。
だからなんだといわれても、そーなんだからしょーがないのである。
東京都内では代表的な寺院で、著名な人物の葬儀が執り行われることが多いのである。
この日もどなたかのご葬儀が執り行われていたのであるが、それが有名著名人であるのかどーかは定かでないのである。
この築地本願寺の現在の古代インド様式(天竺様式)の伽藍は当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあったインド様式の建築に精通した東京帝国大学工学部教授・伊東忠太氏による設計であるのである。
寺院も神社建築と同様、元来は日本古来の木造建築であるが、現代では、建築基準法や消防法の規定上、法定の規模を超える建物は鉄筋コンクリートとすることが義務化されており、昔のように大きな建物を木造とすることができないのであるが、築地本願寺は当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、1934年に完成しており、伽藍には大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔であり、本堂と石塀が国の登録有形文化財に登録されているのであるのである。
以前に参拝に来たときは、本堂伽藍の中は正面の本尊祭壇以外はコンクリートの土間であったように思うのであるが、この日は成人式が執り行われるためか、ものすごい数の椅子が並べてあったのである。
施設の案内によると本堂の収容人数は600人ということであるので600席かもしれないのであるが、もっと多いような気もするのであるが、関係者に確認したわけではないのでわかんねーのであるが、だいたいそんなもんかもしれないのである。
まあ、それで、これは1月下旬に参拝したのであるが、だだっ広い本堂伽藍の中では、お家が無くて路上でご生活をなされてる皆さんが椅子に座って昼寝をなさっていたりしたのであるが、この日は成人式が執り行われるてなことで、館内放送でご退出をご要望されたりしてるのである。
つまり、普段は昼間はお家のない方々がつかの間の居間としてご活用なされることをお許しなるつー、なんとも寛大な慈悲をこよなくお持ちになる巨大な伽藍同様に大きな仏心の器を持つ仏教寺院であるつーことであるわけである。
もちろん、居間としてご活用なされること自体が仏縁であるので、仏の縁起はどこまでも真理であるのである。
縁起(えんぎ)とは、仏教思想の根幹を醸成する考えのひとつで、世界の一切合切は直接間接に何らかの形でそれぞれ関わり合って生滅変化しているてなことであるのである。
あなたの人生運命はすべからく縁起によって構成されているわけであるから、故(ゆえ)あって路上でご生活を余儀なくされているお家のない方々も縁起を構成する大事な仏であるわけである。
いや、まあ、普段の館内を見た訳じゃないのでわかりませんが。
まあ、それで、トイレに行くついでに館内の裏方もあちこち観光してみると、結婚式や葬儀の控え室なんかがいろいろあって、この日は葬儀関係の方が僧服のような制服でたくさんお働きであるのである。
まあ、言ってみれば婚礼を扱う神社の後方施設と似たような造りになっているのである。
しかし、その後方の慌ただしいお仕事のご様子を撮影申し上げることは、霊能記者をなりわいとする象師匠とはいえ、大変失礼にあたるので差し控えたのは言うまでもないことであるのであるが、あたしは何を言ってるんでしょうか。
まあ、とにもかくにも、築地本願寺はその大きさも相まっておおらかで馥郁(ふくいく)とした霊気仏気が充満しており、南無阿弥陀仏の慈悲を余すところなく波動振動に変えてあなたの体内の仏を揺さぶり大きな振動へと導くこと請け合いであるのであるが、それもこれもあなたの日頃の心がけ鍛練訓練修養精進精励修行刻苦勉励謹厳実直の具合如何にかかっているのである。
漢字が多けりゃいいってもんじゃないのはいうまでもないことであるのである。
読みにくいだけではなく、意味もさっぱりわからないのであるのである。
反省してるのである。
つまり、すっかり飽きちゃったのであるが、神のお告げだからしょーがないのである。
仏のネタで神ってしかし、バチ当たるぞ。
あたしのあそこはあれがあれしてあれなんでしょうか。
あれあれ?
口からでまかせかよ。
あんたって笑わせないと気がすまないのねうふん。
ううむ、情けなくて死にそうだ。
まじめに読んでる人ごめんねごめんね。
まあ、なんだっていいやね。
やけくそかよ。
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