霊能気功家象師匠が日本中の霊氣神氣を集めるべく占術を駆使して造られた空間を霊視で巡るスピリチュアル巡礼ツアーである。宇宙の創造主の神意を賜り、魂の浄化を体現し、その清浄な氣によって運命運勢運気を上昇に導くのである。
2013年3月31日日曜日
深川不動堂の開運出世稲荷社
深川不動堂の開運出世稲荷社であるのである。
深川不動堂の境内に入るとすぐ右側に、信心厚き善男善女により奉献された幟旗(のぼりばた)がはためき翻る中、総檜造り檜皮葺きの荼枳尼天尊社殿があるのである。
成田山新勝寺境内に鎮座する出世稲荷を分霊し勧請奉祀しているのであるのである。
分霊(ぶんれい、わけみたま)とは、神道の用語で、本社の祭神を他所で祀る際、その神の神霊を分けたものを指すのであるのである。
分霊を他の神社に移すことを勧請(かんじょう)といい、神道では、神霊は無限に分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされるのである。
尚、他の神社より祭神を勧請した神社を分祠(ぶんし)、分社(ぶんしゃ)、今宮(いまみや)などというのである。
勧請はその神の根源とされる神社(総本社・総本宮)から行われることが多く、分霊された神社(系列社)の社名は、勧請された神名に因むことが多いのである。
稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社であり、ほとんどの稲荷神社は伏見稲荷大社から神霊の勧請を受けているのであるのである。
そんなわけで、稲荷神社の大本の伏見稲荷から分霊(わけみたま)したものが市谷亀岡八幡宮の出世稲荷神社に勧請され、さらにその分霊したもがを成田山出世稲荷に勧請され、それをさらに分霊して深川のこの地にお取り寄せしたわけである。
また、稲荷は本来日本神話の宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主祭神とするのであるが、稲荷神が神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視されることから、この深川不動堂などの仏教寺院境内の稲荷社では荼枳尼天として祀られるわけである。
まあ、このくらい解説しておけば、そうとうおつむブレインのコンディションが芳しくない方々にもご理解いただけると思うのであるが、どーだかわからないのである。
毎年2月15日には例大祭、9月15日には開創記念大祭が盛大に執り行われるてなことであるが、この日はなんでもない日であるので、どちらの大祭も行われていないのである。
なにしろご利益が開運出世であるので、開運成就して立身出世栄達を遂げるわけである。
まあ、参拝したからといってどなたこなたも開運出世するわけでもないのは無論のことであるが、まあ、したほうがしないよりはよろしかろうという象気功論によりじっくりねっとりぐりぐりとご参拝申し上げたわけである。
社殿には五色の願い札や願掛け狐も多数奉納されており、稲荷社前の稲荷受付所御守売り場の願い札1体500円願掛け狐1体千円の販促に貢献すること多大で、商売繁盛を自ら成就されて、その御利益の効果を体現されておられるわけである。
鳥居の横にあるおおきなわらじは「わらじ守り」てなもんであるそーで、小さな絵馬のついたわらじに足災除け・諸願成就を願って書き、大きなわらじに結んで、足が丈夫になりますようにとか、足にケガしませんようにとか、商売がうまくいきますよーにとか、受験がうまくいきますよーにとか、試合に勝てますよーにとか、お金が儲かりますよーにとか、あのイケメンとなんとかなりますよーにとか、あのきょにゅーが嫁さんになりますよーにとか、いーろいろと言いたい放題でわがままをご祈願なさっておられるのであるのである。
この巨大わらじは旧本堂の階段下にもあって、まあ、要するに深川不動堂の名物みたいなことになってるのかもしれないのであるが、これも絵馬の売上販促に貢献すること多大で、お金儲けのうまいわらじであるかもしれないなんてことはわらじの神様に大変失礼に当たるので心に思っても口に出したりしてはいけないのである。。
無論のこと、あたしは象師匠であるので、相手が神様といえどもお願いはされてもお願いすることはないので、象源流参拝法にのっとり、二礼二拍一礼をもって御礼謝意謝辞謝儀感謝の言葉祝詞リップサービスをこれでもかと奏上申し上げたのであるのである。
ああ、ありがたいありがたい。
何がありがたいのかわからなくても何が何でもありがたいありがたいであるのである。
受ければ即あなたの脳に深く共鳴する荼枳尼天の霊気神気の波動振動にも増して、このありがたいありがたいが自らの脳波の波動振動の周波数を下げて、よろしいものを引き寄せるベクトルとなるのである。
これがありがとうではだめであるのである。
あくまでもありがたいなのである。
言霊が自分の体内脳内で完結成就しなければならないのである。
神はほかならぬ自己の躯体に鎮座ましましておられるからであるのである。
ノウマクサンマンダボダナンキリカクソワカであるのである。
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