2015年2月10日火曜日

香取神宮



香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社である。

主祭神はフツヌシ(経津主)として知られる経津主大神 (ふつぬしのおおかみ)で、別名は伊波比主神・斎主神(いわいぬしのかみ)、斎之大人(いはひのうし)てなことである。

経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神であるが、日本書紀のみに登場し、古事記には登場しない神である。

また、出雲国風土記では布都怒志命として登場するつーことであるが、まったく興味がないので、なんにことやらさっぱりであるのである。

神のお告げの御筆先を自認する霊能商売の不肖象師匠としては、実に不謹慎なことであるので、これからは日本書紀と乞食いや古事記をじっくりとご拝読なされて、日本の古代史をこころゆくまで認識したいところであるが、おそらく絶対にご拝読されることはないのはご想像のとおりである。

香取神宮は、式内社(名神大社)で、下総国一宮である。

式内社とは延喜式内社の略で、延長5年(927年)にまとめられ、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式」の巻九・十の神名帳 (じんみょうちょう) に記載されている神社を指すのである。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっているのである。

延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)あるいは比定社(ひていしゃ)と呼ばれるのであるつーことであるが、しかしなんだね、どんどんめんどくさくなるのである。

それでもめげずに、さらに、一宮(いちのみや)とは、その地域の中で最も社格が高いとされる神社のことである。

香取神宮の社格は、明治維新後に作られ第二次大戦後にGHQによって廃止された近代社格制度(旧社格)では官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社であるのである。

社格制度廃止後、伊勢神宮を除き全ての神社は対等の立場であるとされたのであるが、旧の官国幣社や一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすることと定められ、その対象となる神社が同規程の「別表」に記載されていることから、「別表に掲げる神社」「別表神社」と呼ばれることとなったのであるつーことである。

まあ、パワースポット探訪の先駆けとして亀有の香取神社にはすでにご参拝済みであるが、香取市の香取神宮は関東地方を中心として全国のあちこちにある香取神社の総本社で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社であるのである。

また、宮中の四方拝で遥拝される一社であるつーことであるから、大変エライ神社であるのであるつーことを踏まえて、古今未曾有の大霊能者を自負する象師匠といえども一心不乱に気合を入れてのご参拝である。

四方拝において天皇が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮の氷川神社・山城国一宮の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)・石清水八幡宮・熱田神宮・常陸国一宮の鹿島神宮・下総国一宮の香取神宮であるつーことであるが、このブログの文章はただでも漢字多様で読む気が失せるのに、さらに漢字だらけのわけわからん内容をこれ以上のめりこんでも読む人がだーれも居ないと思うので、このへんで勘弁してやるのである。

香取神宮は、常陸国一宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在であるのである。

まあ、おおまかにそんなことであるが、門前町は香取神宮側から見ると閑古鳥である。


駐車場方面から見ると開いてる店ばかりに見えるのであるが、鳥居に近づくにつれて閉店の店が多くなるのである。

この日が平日ということもあると思うので、日曜祭日はどの店も開いてにぎわっているのかもしれないのである。

象気功はリアリズムをもって旨とするので、ふつーのブログでは避けて通る暗部もしっかりと描写してジャーナリストとしての使命をこよなく果たすのである。

つーことで、神社をご参拝申し上げる正しい順序は、二礼二拍手お賽銭一礼であるので、お賽銭二礼ニ拍手一礼ではよろしくないということをひと言ご注意申し上げておくのである。

さらに、お賽銭を賽銭箱に投げ入れてはいけないのである。

神様に向かって「ほらよ!」では、ご利益よりも神罰があたるのは当たり前であるので、そっと丁寧に入れなければならないのである。

また、神社においてはご縁がありますようにということでお賽銭は五円玉が基本であるが、現在の物価ではあまりにも少なすぎるので、あたしは大枚百円玉をそっと丁寧に放り込んだのである。

だから、放り込むのはやめろ。

ちなみに寺院においてはご縁があるとまずいので五円はよろしくないという話もあるが、寺院を葬儀場と勘違いしている馬鹿げネタであるので、あたしら敬虔なる仏教徒としては本来のお釈迦さんの教えの拠り所としての寺院の存在意義を復権したいところである。

おいおい、話がどこへ行くんだ。

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