霊能気功家象師匠が日本中の霊氣神氣を集めるべく占術を駆使して造られた空間を霊視で巡るスピリチュアル巡礼ツアーである。宇宙の創造主の神意を賜り、魂の浄化を体現し、その清浄な氣によって運命運勢運気を上昇に導くのである。
2018年1月29日月曜日
杉本寺(鎌倉)
杉本寺(すぎもとでら)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院で、正式名称は天台宗大蔵山杉本寺(てんだいしゅうだいぞうさんすぎもとでら)である。
本尊は三体の十一面観音像である。
坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所で、鎌倉最古の寺とされている実に由緒正しいお寺さんである。
参道石段の途中に料金所があって、入場料あるいは拝観料大人200円小学生100円をお支払いすると、堂内の本尊の三体の十一面観音像を始めとして、前立十一面観音像、新十一面観音像、観音三十三応現身像、毘沙門天立像、二体の地蔵菩薩立像などを心行くまでじっくりと拝観できるのである。
もちろんあたしは大枚200円を払って拝観の労をとり、今後の人生の糧としたのは言うまでもないことである。
なんの糧になるのか、あるいはまったくの無駄払いなのかはともかくとして、まあ、日本古来の宗教である神道の神社の名称は訓読みで、インドから中国を経て渡来した宗教である仏教の寺院は音読みというのが慣習であるが、このお寺さんは寺院にもかかわらず訓読みである。
杉は表外読みでサン(漢音)あるいはセン(呉音)であるが、「さんぼんじ」あるいは「せんぼんじ」あるいは「さんほんじ」あるいは「せんほんじ」あるいは「さんぽんじ」あるいは「せんぽんじ」ではなく「すぎもとでら」であるところになかなか奥ゆかしいあれこれがあるわけである。
鎌倉時代の文治5年(1189年)に堂宇が焼失しているが、このとき本尊である三体の十一面観音像は自ら本堂から出て、境内の杉の木の下に避難したと伝えられ、このことから「杉の本の観音」と呼ばれるようになり、必定「すぎもとでら」という訓読みの寺号になったわけである。
なにしろ三体の木彫りの観音像が自らとっとことお歩きになって境内の杉の木の下に避難されたのである。
まさにミラクル奇跡驚天動地の出来事である。
お釈迦様のご威光はその化身である十一面観音の木彫りの像をも歩かせるのである。
くらいすと様だって手を触れた人のお病気をたちどころに快癒されるという奇跡を起こしているのであるから、木像を歩かせるぐらい宇宙の中心の須弥山のてっぺんにおられるお釈迦様にはお安い御用であるのは想像に難くないのである。
ううむ、興味がないのでものすごくでたらめな展開になってるが、勘違いされると困るので言っておくが、あたしは父祖代々某宗仏教寺院の護持会役員で、檀家総代も務めた敬虔な仏教徒であるので、決して怪しいものではないのである。
怪しいものてな言い方ではさらに怪しいものであると言ってるようなもんであるが、怪しいものではなくおかしいものであるのは否めないのである。
おかいしのがどこかというともちろんあそこである。
やめんか。
てなことで、氣の組成がこの世を構成する最小単位である素粒子であるのは当然であるが、それがなぜ意思つまり脳によって操作されるのか、なぜ、離れた場所にいる人の霊体を自分の前に呼び出せるのか、なぜその霊体に氣を送ると離れた場所にいる本体に同様の作用が現れるのか。
つまりは、この世は脳が作り出した幻想であるからである。
たとえば左脳が機能しなくなれば、自分と周囲の区分が無くなって、周囲と一体化してしまうのである。
あなたの見ている世界はあなたの脳が作り出した世界であり、他者の見ている世界と同じものではなく、それが誰に対しても実在するものではないのである。
その脳を作り出したものが「神」であるわけであるが、「神」というのは、「なんだかわからないもの」ということである。
たとえばこれから、早晩実現する可能性のあるプログラミングで画面上に作り出した生命体にとっては、作り出した我々は「なんだかわからないもの」である。
氣がわかるとなんだかわからないものにときどき触れるのであるが、やっぱりそれはなんだかわからないのである。
そのなんだかわからないものがわかるのはいつなのかは、もちろんなんだかわからないのである。
スピリチュアル 精神世界