明月院(めいげついん)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院で、山号は福源山、本尊は聖観音である。
寺伝によると、今から約850年前の永暦元年(1160年)に山内首藤経俊により名月庵が建立され、あれこれの経緯の末、中興開山(初代住職)は密室守厳(みっしつしゅごん)禅師である。
まあ、北鎌倉といえば明月院というぐらいテレビ番組でもネタにされる名刹である。
明月院はあじさい寺と別名があるわけであるが、この日は正月の二日であるので、あじさいの枯れ枝の枝ぶりのみのご鑑賞である。
渾身の動画で山門から参道のあじさいのみごとな枯れ枝をじっくりとご鑑賞いただけるはずであったが、おりからの逆光で何がなんだかわからんカメラワークである。
これが入口であるが、知らないおじさんが仁王立ちである。
大柄なおじさんであるので、さしもの不世出の気功の大達人の不肖象師匠も「ロケの邪魔だからあっちいけ」てなことを申しあげると、逆切れされて大立ち回りにならないとも限らんので、まだかなーまだかなーと立ち去るのを待ってから撮り直しである。
この世をなめらかに生き抜く極意は、避ける、逃げる、謝る、である。
殴られれば痛いし、逆にうっかり殴ったりして相手が倒れて頭を打ってご死亡なされたりすると、国家による長期間の監禁状態はもとより、民事による賠償金もえらいことになるし、新聞テレビメディアに写真入りで登場して、家族親族は外も歩けない始末にならないとも限らないのである。
あたしはバカではないのでバカなことはやらない主義である。
当たらずさわらず近寄らずが人生の奥儀であると確信しているわけである。
虎穴に入らずんば食われない、である。
虎児なんか得ても親虎に食われちまえばなんのこっちゃである。
どいひーな展開で、いったいどこに霊氣神氣があるんだという抗議のあれこれも聞こえてきそうな雲行きであるが、かならずや行く手に光明が光り輝くのは必然の成り行きである。
意味のわからんゴタクはともかく、入口を入ると総門という名の料金所があり、ここで拝観料500円をふんだくられる、いや失礼、お支払いすると晴れて境内をご鑑賞できるのである。
もちろん、株成金大富豪の象師匠であるから、「ほれ、とっとけ、つりはいらん」と景気よく500円玉1個を差し出したのはいうまでもないことである。
つっこまないでね、お願い。
動画はこの総門を入ってからのロケである。
横に拝観口という名の旧料金所があるのである。
旧料金所をなんで取り壊さないのかといぶかる向きもあろうが、それもこれも悠久の歴史の1ページとして明月院旧料金所という史跡とするためか、取り壊す費用の捻出がままならないのか、真偽は永遠の謎に包まれたまま象師匠の足取りも軽く境内に突入したわけでである。
日本語がめちゃくちゃである。
方丈と扁額がかかってるのが本堂である。
方丈とは禅宗寺院の住職の居室あるいは住職を指す言葉であるが、明月院では、かつては本堂が住居を兼ねていたということであるのかもしれないのである。
もちろん、当時院の関係者に聞いたわけではないし調べたわけでもないので、あくまでもあたしのアレのソレである。
本堂の右隣というのか次の間というのか、有名な悟りの間である。
明月院とググれば、アジサイとこのお部屋のお写真がでてくるのである。
さらに、本堂前には枯山水のお庭がしつらえてあるのであるが、カップルがなにやら仲良くお話していてむかつく、いや失礼、構図が今一つであるので、撮り直しである。
てなことで撮り直したが、たいして変わらんので、先ほどのカップルには非常に失礼な物言いとあいなってたわけである。
これ、ものすごく無駄だろ。
開山堂(宗猷堂)である。
1380年頃に建てられた「宗猷堂」(そうゆうどう)が、のちに開山堂と呼ばれるようになったのである。
堂内に祀られている明月院中興開山の密室守厳禅師の木彫の座像である。
守厳禅師も明月院が後世にこんなに有名になるとは思っていなかったであろうから、この世の習いはなるべくしてなりならないべくしてならないわけである。
なるようにしかならんのであるから、諦めが肝心であるし、さらには流されて生きる、好きなようにテキトーに生きる、ということを念頭に本年んもあれこれするわけである。
文章がテキトーかよ。
鎌倉幕府五代執権の北条時頼公墓所と立札のある時頼公の廟所である。
とにかく、入口で500円もふんだくられた、いや失礼、お支払いもうしあげたので、境内をくまなく見て回るわけである。
もちろんその500円であれこれのメンテナンスやお掃除やお庭の整備などが行われて、あたしら神も仏もない物見遊山の観光客も楽しめるわけであるから、文句を言うなんてのはおこがましい限りであるのはいうまでもないことである。
この時頼公のお位牌のある仏壇だってどなたかが日々お掃除なされておられるわけであるので、この世はもちつもたれつである。
なにいってんだかわからんのである。
鎌倉十井のひとつに数えられる「瓶の井(つるべのい)」である。
いわゆる井戸である。
古来より井戸は住居の生命線である。
ゆえに井戸に神が宿るわけであるが、その伝でいえば現代の生活では水道の蛇口に神が宿るので、この瓶の井も今は神が宿ってるとは言い難いかもしれないわけである。
異論も多々あるとは思うが、まあ、神てなものはだいたいがそんなところからの発祥であるのはいたしかたないわけである。
右側の座像は季節の花を膝に抱えた「花想い地蔵」である。
なにしろ花を想っているわけであるが、鼻を想っているわけではなさそうである。
つまるとだじゃれで逃げるところが落語家のさがである。
誰が落語家だ。
誰かなんとかしてくれ。
笑いのレベルがどんどん下がって、絶壁頭のふちを歩くような今日この頃である。
人間は笑いをとれてなんぼである。
笑いがとれなくなったらさっさと店じまいして、保険証の裏の臓器提供に軽やかにサインして少しでも社会に貢献しようとする心意気をうううあたしはどこかおかしいんでしょうか。
「桂橋(かつらばし)」である。
トントントンと上がって降りると運気が上がるてなことも書いてないのであるが、そのうちそんな話も出てくるかもしれないので、いちおう渡っておくのである。
いちおうかよ。
あじさいの絵馬に願いを書いて奉納する絵馬堂である。
まあ、とくに願いもないので、絵馬は奉納しないのである。
願いもオチもないのである。
もしかすると、おまえアホだろ。
さすがは明月院である、トイレも美しいのである。
なにしろ「月の広場」である。
明月院だけに。
明月院の前は「明月院通り」である。
明月院だけに。
明月院通りに沿って流れる「名月川」である。
明月院だけに。
もう、勘弁して。
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