2021年1月6日水曜日

放光寺(甲州市)

象気功

放光寺(ほうこうじ)は、山梨県甲州市塩山藤木にある寺院で山号は高橋山である。

真言宗智山派に属し、本尊は金剛界大日如来である。

入り口の総門である。

放光寺は周防正行監督、本木雅弘主演の映画「ファンシイダンス」のロケ地でもあるとウィキに書いてあるが、残念ながらあたしゃこの映画は見てないのである。

映画評論家のはしくれとして非常に恥ずかしいことであるが、そのうち見るかも知れないということでお茶を濁すのである。

誰が映画評論家だ。

すみません、ただの嘘つきです。

総門の左横に放光寺の略縁起てなものが書いてあるが、古くて読みにくいので読まないのである。

読まないのかよ。


代わりに参道の入り口付近の立て看板の説明を読んだのである。

なにしろ放光寺は「やまなしの歴史文化公園」のひとつである。

ひとつかよ。

つっこみになってねーぞ。

総門をくぐると遥か彼方に仁王門が見えるのである。

見えるのかよ。

つっこみになってないったら。

仁王門の左右には重要文化財の阿吽の金剛力士像つまり仁王様が門番としておられるはずである。

はずかよ。

有り体に言えば写真を撮るのを忘れたのである。

言わなければ分からんことであるが、尺稼ぎに一応言っておくのである。

尺稼ぎかよ。

まあ、これはつっこみになってるかな。

仁王門をくぐると本堂の前の三門が見えるのである。

くぐるとかよ。

お前はバカか。

バカで~す。

みんな逃げないでね。

三門からは本堂が見えるのである。

本堂には何やら仏像がお立ちである。

観音菩薩像である。

もちろん、いつものごとく大枚100円を喜捨して、口を極めてなむなむしたのは言うまでもないことである。

「口を極めて」は極めて用法がまちがってるかもしれないのであるがめんどくせーので直さないのである。

庫裡の門である。

扁額が古くて門の名称は定かでないのである。

庫裡の玄関である。

お寺に用事のある人はここから大きな声でこんにちはするわけである。

あたしは特に用事がないのでこんにちはは差し控えておごそかに合掌してなむなむしたのである。

お寺さんに来たらどこでもなむなむしておけば差し障りがないのである。

お寺でアーメンだのソーメンだのラーメンだのというと怒られるが、なむなむして怒る人はいないのである。

これなんか役に立つのかね。

象気功は何の役にも立たない気功法である。

えばるな。

境内の中ほどにある弁財天である。

ダンサーとして、また令和最大のヒット作「ぺちぺちくん」を生んだ漫画家として、芸事の神様弁財天をなむなむすることは重要なあれこれである。

誰がダンサーで漫画家だ。

言わしてよ~。

弁財天に行く弁天橋である。

実にわかりやすいネーミングである。

これが梵天橋だったら「ちがうじゃん」と言われてしまうのである。

ちなみに梵天はテロで爆破されたことでも有名なタイのエラワン・プームに祀ってあるヒンドゥーの神のブラフマーである。

もちろんどーでもいい話である。

じゃあ、するなよ。

弁天橋を渡ると弁財天の祠である。

今後の芸事のいやさかを祈り、気合を入れて「オンサラスバテイエイソワカーッ」と三度なむなむしたのは言うまでもないことである。

これを「オンソラソバテイエイソワカ」と唱えても良いのは言うまでもないことである。

いずれにしても真言はサンスクリットをカタカナにしたものであるので、神様本人には「日本人のアホがカタコトでなにゆーてるのかわからん」てなことであるから、なんでもいいのである。

まあ、余談であるが、いつだったか、高尾山の駐車場で白人の奥さんからカタコトの日本語で話しかけられたのであるが、まったく何をゆーてるのかわからなかったのである。

「いんぐりっしゅぷりーず」と言ったら大喜びでぺらぺらぺらとわかりやすい英語で話し出して、「バッテリーがあがったのでケーブルを貸してほしい」ということだったのである。

つまり、逆に言えばあたしらのサンスクリットはこの白人の奥さんの日本語である。

どんなえらい坊さんの読む真言もこの白人の奥さんのまったく何をゆーてるのかわからん日本語である。

神様だって「何ゆーてんねんこいつ」である。

だからなんでもてきとーに拝んどけ拝んどけである。

象気功は身も蓋もないが、当たり前のことしか言わないのである。

同じく境内にある大黒天のお堂である。

全国の金の亡者垂涎の象気功金運チャクラ覚醒講座の中心をなす財福を司ると言い張る神様である。

神様には何ゆーてるのかさっぱりわからん「オンマカキャラヤソワカ」の真言も勇ましく、誰もいないので大声で多めになむなむしていたら、近くにカップルがいて、このあたしを怪しいやつを見る顔つきで逃げて行ったのである。

鐘楼である。

もちろん勝手に鐘を撞くと怒られるので、撞く代わりに合掌してなむなむしたのは言うまでもないことである。

意味ねーじゃんと思うであろうが、南無は仏法僧をよりどころとする三帰依を宣言するということであるので、あたしは我を捨てこの鐘楼に帰依したわけである。

何を言ってるのかまったく不明であるが、氣で脳が壊れて以来こんな調子である。

キ印を宣言してどーすんだよ。

誰がキ印だ。

ああ、あたしだ。

もうやめろ。

お寺の鐘も鳴らずカラスも鳴かないが帰るのである。

内容がないよう等の苦情はいっさい受け付けません。

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