2021年1月3日日曜日

身延山久遠寺初詣(2021年元日)


象気功

霊氣神氣を受けて新年を寿ぐ行事といえばなんといっても初詣である。

正月の神社仏閣はめでたい氣が溢れ、氣の亡者のあたしとしてはこの世の極楽である。

例年は我が家が方丈の末裔の落ち武者からの由緒正しい百姓であることから、恒例の氣の行事として鎌倉八幡宮に泊りがけで詣でるのが父祖代々の習わしであるが、今年は新型コロナ禍の例に漏れず不要不急のあれこれで自粛取り止めとなったのである。

それでも自他共に認める世界最強の氣の泰山北斗のあたしとしては初詣に行かねば日本男児としてのメンツが立たないしあそこも立たないのである。

あそこってどこ?

知りませんし、知ってても言えません。

つーことで、はるばる東京から山梨県にある日蓮宗総本山身延山久遠寺まで日帰りで南無妙法蓮華経の氣を受けに馳せ参じたのである。

なんでそこまで氣にこだわるのかあたしにもわからんが、そこはそれそのように神のみ心のままになるようになるということである。

いつものごとく、なに言ってるのかいまひとつ判然としないが、この世は氣の波動で成り立っているわけであるので、とにもかくにも氣の集積所である神社仏閣へ行かないことには霊能気功師としてのお役目が損なわれるのである。

益々、なにを言ってるのか自分でも分からんわけであるが、久遠寺境内では日蓮宗新聞公式キャラクターの「こぞうくん」と坊さんが大活躍で、初詣に来た参拝客に記念撮影のサービスである。

こぞうくんのおかげで境内の氣は益々寿ぎ、日本の未来は明るく照らし出されたことは間違いないが、たいしたことはないかもしれないのである。

それ、言わんでもいいだろ。

氣よりも感染予防である。

氣なんかコロナにはなんの役にもたたないのである。

コロナを予防するにはマスクと手指消毒と、小池百合子大僧正ご推奨の「三密を防ぐ」ことが寛容である。

蓮華経のご利益よりも三密のご利益である。

三密と言っても真言密教とはなんの関連もないのは言うまでもないことである。

もちろん密教の修行よりも「三密の行」がコロナには必須であるのも言うまでもないことである。

日蓮宗の総本山に来て真言密教もないもんであるが、まあ、そんなこんなである。

どんなだよ。

身延山名物といえばこの参道の287段の急峻な石段登りの修行であるが、本日は正月の混雑対策のためなのか、境内にほど近いロープウエイの駐車場まで無理やり誘導されてしまったので残念ながら石段修行はノンノンである。

頼むからそのノンノンはやめて。

駐車場に付いたら、マスクを顎の下にしてるアホのおばさん係員にチラシを渡され「よかったら、ロープウエイにも乗って下さい」と大声で飛沫を飛ばしながらさらにアホなことを言われたのである。

「このコロナ禍真っ最中の初詣で誰が三密の代表のロープウエイなんかに乗るかアホ!」と怒鳴ろうと思ったが、大声を出すと飛沫が飛ぶので控えたのは言うまでもないことである。

それにしても百合子ちゃん会見の「正月はステイホーム」の懇願もむなしく駐車場は東京を始めとして県外あちこちからの浮かれた初詣客で満杯である。

まったくこいつらはろくなもんじゃないのである。

ううう、あたしもだった。


深く反省をしたふりをしながら、駐車場の奥に人が行くので、なんだろうか?と見たら、境内まで登るエレベーターである。

反省したふりかよ。

こんな狭い箱に見ず知らずの奴らと三密丸出しで乗ってるこいつらはどのぐらい低知能なのかと思ったが、まあ、誰もがダンサーのあたしみたいに足腰が丈夫というわけではないわけである。

誰がダンサーだ。

つっこみがうるさい。

高齢その他いろいろな事情で坂道を上がるのも苦になる人もいるだろうからしょーがなしょーがないと納得しようとしたが、「なら、こんな時期の初詣なんかやめとけーっ」と怒鳴ろうとしたがやはり飛沫が飛ぶので控えたのは言うまでもないことでである。


駐車場から結構な坂道をえっちらおっちら登る途中にある「琥珀明寿大菩薩」である。

仏教の尊格であるのにどーゆーわけか、ご丁寧に鳥居も立ってるのである。

鳥居があろうがなかろうが、象気功名物「なんでもいいから拝んどけ拝んどけ」の合言葉通りに張り切ってあらんかぎり大声でなむなむしようとしたが時節柄小さな声でなむなむしたのである。

このように苦労を厭わなければありがたーい菩薩様になむなむできるのである。

まあ、菩薩というのは悟りを求める修行中の僧あるいは衆生、つまりはあたしらのことであるが、「なーんだアホのことかよ」なんてなめてはいかんのである。

この世はすべてが同一であり、菩薩は仏陀の化身であるぞよ。

うう、つまらん、のりおよしおのネタみたいにつまらん。

こらっ。

この貧相なカップコーヒーは、談合坂SAでいつも飲む、「世界初一杯毎に豆を挽くミル挽き珈琲」と言い張る自販機のキリマンジャロコーヒーである。

これが200円なのに芳醇な香りと苦味のないまろやかなテイストで、ううむ、自分ながら死にそうになるほど情けない文章であるが、とにかく美味いのである。

談合坂にも某すたばはあるが、あたしは某すたばの香りもなくて苦いだけのコーヒーが大っきらいである。

それなのになんであんなに人気があるかというと、コーヒーてなものは味も香りもどーでもよくて、つまりはそれもこれも宣伝によるイメージあるいはファッションあるいはパ~の思い込みであるわけである。

正月から天下の某すたばもぼろくそである。

どこが悟りを求めて修行中の菩薩なのかわからんが、まあ、どーでもいいやね。

象気功の扇、いや奥義のひとつは「どーでもいい」である。

何をどうやろうがやらなかろうが、どーせなるようにしかならんのであるから、どーでもいいわけである。

まあ、これは死と隣合わせの激烈な修行の結果に掴んだあたしの実感であるので、しろーとの皆さんに理解しろということ自体が無謀であるが、まあ、それもこれもどーでもいいのである。

誰が死と隣り合わせだ。

でも某すたばのコーヒーは大っきらいである。

つまりは、個人の好みだからしょーがないじゃんということである。

ここでも百合子ちゃんの「正月はステイホーム」もむなしく、東京からのバカどもの車がぎょーさんやがな。

だーれも百合子のゆーことなんか聞いとらんがな。

しまった、あたしもだ。

双葉サービスエリア下りで昼飯に食った「富士山丼」である。

とんかつ定食を丼もんにして、安直に「富士山」を付けたという実にわかりやすいネーミングであるが、この荒っぽいお料理が意外にグーである。

ところで、エド・はるみって生きてるの?

よしなさい。

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